#youth|スポーツと政治──レブロン vs. イブラヒモビッチ
「アスリートや芸能人は政治的発言をするな」。こういった発言をSNSやインターネット上でよく目にする。個人の発言のプラットフォームとしてSNSを誰もが使用している昨今において、この発言についてアスリートと私たち、観客の関係から考えてみたい。
今日も呟かれる「アスリートは政治的発言をするな」問題を考えます。
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2021/05/14
執筆者 |
眞鍋ヨセフ
(まなべ・よせふ)

elabo youth編集長。映画、アート鑑賞、読書が趣味。

「アスリートや芸能人は政治的発言をするな」。
こういった発言をSNSやインターネット上でよく目にする。個人の発言のプラットフォームとしてSNSを誰もが使用している昨今において、この発言についてアスリートと私たち、観客の関係から考えてみたい。

 

レブロン・ジェームズとズラタン・イブラヒモビッチの舌戦

 

バスケットバール界のスーパースターであるレブロン・ジェームズとサッカー界のスーパースターであるズラタン・イブラヒモビッチによるスポーツ選手の政治的発言をめぐる舌戦は、2021年2月26日のイブラヒモビッチの母国スウェーデンのメディアでの発言が発端となった。

 

イブラヒモビッチは、かねてから政治的発言をSNSやメディアを通して行うレブロンに対してこう発言した。

 

“I like him [Lebron James] a lot , He’s phenomenal, butI don’t like when people with a status speak about politics. Do what your goodat doing.”

「私はレブロン・ジェームズが大好きだ。彼は驚異的だ。ただ、私は地位を持つ人物が政治について発言することは嫌いだ。自分が不得意なことはするべきではない」。

 

“This is the first mistake famous people do when theybecome famous: for me it is better to avoid certain topics and do what you’regood doing, otherwise you risk doing something wrongly.”

「これは有名人が有名になったときにする最初の間違いのひとつだ。私にとってはそういった話題を避けて、自分の得意なことをするほうがよい。そうでないと間違ったことをする危険がある」。

 

これに対して、レブロンは翌日27日の試合後の会見で、自身の発言の理由を交えて「黙るつもりはない」と反論した。

 

“I will never shut up about things that are wrong. Ipreach about my people and I preach about equality, social justice, racism,voter suppression – things that go on in our community.”

「私は間違っていることに対して黙るつもりはない。私たちと私たちのコミュニティで起きている、社会的不公正や人種差別、選挙への抑圧などの問題を伝えていく」。

 

そして、「自身の言葉は同じコミュニティの代弁である」と続けた。

 

“Because I was a part of my community at one point andsaw the things that were going on, and I know what’s still going on because Ihave a group of 300-plus kids at my school that are going through the samething and they need a voice. I’m their voice and I use my platform to continueto shed light on everything that might be going on, not only in my communitybut in this country and around the world.”

「なぜなら、私は自分のコミュニティの一部であり、そこで何が起きているのか知っている。私には同じことを経験している300人以上の子どもたちがいて、彼らには声が必要だ。私は彼らの声として自分のプラットフォームを使って、自分のコミュニティだけじゃなく、この国と世界中で起きていることとこれから起きることの全てに光を当て続ける」。

 

イブラヒモビッチもそれに応じて、レブロンの焦点が人種差別問題であることに理解を示しつつ、アスリートは、政治と同様に人々を分断してはならないと応答している。

 

“Racism and politics are two different things. Weathletes unite the world, politics divides the world. everyone is welcome, ithas nothing to do with where you are from, we do what we do to unite. We don’tdo other things because we are not good at it, otherwise I would be inpolitics. That’s my message. Athletes must be athletes, politicians must bepoliticians.”

人種差別と政治は2つの違った事象だ。私たちアスリートは世界をひとつにするが、政治は分断する。誰がどこから来たのかは関係ないし、私たちは一致のために自分がしないといけないことをするだけだ。私たちは不得意なほかのことをしない、そうでなければ私は政治をしていただろう。それが私の言いたいことだ。アスリートはアスリートであるべきだし、政治家は政治家であることにとどまるべきだ」。

 

2人のバックグラウンドが教えてくれるもの

 

2人のアスリートが対立している争点は、「アスリートや芸能人は政治に関わるべきか否か」という問題であるように見えて、実際はそうではない。政治に関わる方法において2人の姿勢に食い違いがあるということだ。

 

バスケットボールというスポーツを語るうえでレブロンは今や最も重要な人物といっても過言ではないだろう。現在、NBAのロサンゼルス・レイカーズに所属するレブロンはアスリートとしてだけではなく、起業家としての側面、チャリティを積極的に行う社会活動に熱心な側面も持っている。また、SNSを通して、差別への反対や、さまざまな政治的な発言をすることもレブロン・ジェームズという人物を語るうえで重要な点である

 

先の話題に戻ると、彼自身がアメリカ社会における黒人であり、貧しい境遇から現在に至ったことを考えると、経験をしてきた過酷な現実を変えようと行動を起こすことには納得がいく。事実、「声を上げることのできない」自分と同じような境遇の人を代弁しているという彼の発言を考えると、イブラヒモビッチの批判は的外れではないかとも感じる。

 

しかし、レブロンが「イブラヒモビッチ自身も、自身の苗字がスウェーデンでは一般的でないものであることで人種差別が行われているように感じたと発言していた」といみじくも語ったように、イブラヒモビッチ自身も複雑な過去を持っている。スウェーデンに移住した、ボスニア出身のボシュニャク人(ムスリム)の父とクロアチア人(カトリック)の母から生まれたイブラヒモビッチは、自国で移民としての差別を経験している

 

この事実を考えると、イブラヒモビッチの主張にも一理はあるようにも思える。特に、彼の両親の経歴に、バルカン半島における民族同士の激しい対立が刻まれているという認識を持っているとすれば、スポーツには分断を持ち込みたくないという彼の主張には非常に重い背景があると言えるだろう。

 

「スポーツの力」に騙されるな

 

「スポーツの力」という、よく耳にする力がある。スポーツは人々をひとつにする、スポーツには人を変える力があることを言いたいのだろう。イブラヒモビッチはスポーツの統合する力と政治の分断を生む力を強調する。この主張はすべてのスポーツには当てはまらないとは言え、スポーツがそのような力を持っていること自体には異論はない。

 

しかしである。スポーツと政治は切り離することはできないのではないか。イブラヒモビッチの「アスリートは世界をひとつにする、分断を生まない」という発言は、そこに「だから、自分の得意なことだけをするべきだ」という条件が加わることで、スポーツ以外の分断には向き合わないことを是とする逃避にも見えてしまう。もう一歩踏み込むと「スポーツの力」という言葉そのものが逆説的に強い政治的な意味合いを含んでいるようにも見えなくない。

 

スポーツの力の純粋性を失わないために、リアルな政治に関わる発言をしないのがイブラヒモビッチであり、スポーツの力でリアルな政治も含めた社会を変えたいと、その可能性に賭けているのがレブロンではないだろうか?

 

レブロンのほうが教養があり、正論であるという結論づけも、イブラヒモビッチの過去を考慮すると、彼の発言は許容されるべきだという擁護もできるであろう。しかし、これは問題に十分に向き合うことにはならないように思われる。さらに言うと、人それぞれの意見があっていいじゃないかという客観視を装うことも「アスリートの政治的発言」についての議論を促進させることにはならない。

 

 

現在、著名なアスリートや芸能人が政治的発言や意見を表明することに対する抵抗を感じる人は少なからず存在するだろう。私たちはスポーツを何のために楽しみ、観戦するのか? 何のためにアスリートを応援し、声援を送るのか?

 

スポーツはある種の連帯感を生むものだ。時に人はアスリートに叶わなかった夢を託し、同じ競技を経験した者としての共感を示す。そこには人々を何かに向けてひとつにする働きもあるだろう。しかしその過剰な共感が、アスリートを自分にとって都合のよい偶像にしてしまう恐れがある一部の日本人による大坂なおみ氏への心ないバッシングも、そのようなアスリートの偶像化によるものではないか。スポーツは人を強く結束させるプラットフォームだからこそ、排除が生まれやすく、また見過ごされてはならない差異が隠されてしまう恐れがあることに留意すべきだろう。

 

最後に、私は必ずしも、アスリートに政治的発言をしてほしいということも思っていない、と付け加えておきたい。アスリートをアスリートとしてだけではなく、まずひとりの人間として、その背景にあるコミュニティの代弁者として、その政治的側面を理解したらどうだろう★1。そのうえで、アスリートと観客がともにスポーツに向き合う。それがこれからのスポーツの姿であり、「スポーツの力」を最大限に発揮できる瞬間なのではないだろうか?


★1──最近、バスケットボール選手の八村塁、阿蓮兄弟が、きわめて悪質な人種差別的メッセージをSNS上で受け取っていることが明らかになった。こうした問題についても、ヘイトを行う者を批判するのは言うまでもないが、同時に、改めてここで被害を受けている選手が持つ背景について理解すること、ひとりの人間として守られるべきだと確認することが重要だと思われる。

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2021/05/14
執筆者 |
眞鍋ヨセフ
(まなべ・よせふ)

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写真 | All-Pro Reels (CC BY-SA 2.0)
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