#youth|「誰も傷つけない笑い」しか知らない私が思うこと
今、お笑い界で「誰も傷つけない笑い」がトレンドになっている。2019年「M-1グランプリ」で一躍有名になった「ぺこぱ」がその代表格である。また、第7世代の筆頭といわれる「霜降り明星」、ネオ渋谷系漫才を引っ提げた「EXIT」などもこのトレンドを象徴している。
#ぺこぱ #第7世代 #ネオ渋谷系漫才
culture
2021/05/14
執筆者 |
早希
(さき)

20歳。自由を愛する、生粋の大阪人。甘いものが嫌いで、辛いものが好き。自他ともに認めるAB型。

今、お笑い界で「誰も傷つけない笑い」がトレンドになっている。2019年「M-1グランプリ」で一躍有名になった「ぺこぱ」がその代表格である。また、第7世代の筆頭といわれる「霜降り明星」、ネオ渋谷系漫才を引っ提げた「EXIT」などもこのトレンドを象徴している。しかし、誰も傷つけない笑いは面白い、今の時代に合っていると賞賛される一方で、誰も傷つけない笑いは面白くない、つまらないと批判する人もいて、小さな論争になっている。

 

昔は面白かった vs. 昔は面白くなかった

 

しかし、私はこの誰も傷つけない笑い論争は、今に始まったことではなく、じつはもっと昔から、私が生まれる前からあったものだと考えている。今の笑いが誰も傷つけない笑いだとしたら、昔の笑いは誰かを傷つけていたのだろうか。少なからず、昔は、今よりもっと笑いの幅が広かったと思う。その中には、誰かを傷つける笑いも、傷つけない笑いも存在した。

 

昔は面白かったという人がいれば、対極には、昔は面白くなかったという人がいる。誰かを傷つける笑いを見たとき、それを良しとする人もいれば悪しとする人もいる。面白くなかったという人のなかには、誰かを傷つける笑いは、過激で教育上悪いと考える人もいただろう。しかし、笑いというエンタメを人前で披露する限り、このような対立が昔から存在したことは容易に考えられる。

 

ここで現在のような論争が起きても不思議はないはずなのだが、起こらなかったのはなぜだろうか。私は、昔は自分の意見を声にする手段がなかったからだと考えている。インターネットの発達により、SNSが普及した。自分が思う意見、主張を発信しやすくなった。同じ考えを持つ仲間も見つかるようになり、個人の声が大きくなった。

 

若者に2つの波が押し寄せる

 

「今の笑いはつまらない」には、「昔の笑いを知っている」ことが前提条件に含まれている。お笑い芸人のケンドーコバヤシは、今を「絶望的につまらない時代」と言い★1、2020年「女芸人No.1決定戦 THE W 2020」で優勝した吉住は、誰も傷つけない笑いはやりづらいと思うことがある、と発言している★2。彼、彼女は昔の笑いを知っているからこそ、今と昔を比較して、今の笑いがつまらないと言うことができる。しかし、私は、知らない「昔」を自慢されているような気になってしまう。大人に、バブルはすごかった、昔は携帯電話なんてものはなかった、と言われることと同じ感覚だ。2000年生まれの私は、バブルがあったことを中学の社会の時間に初めて知り、物心がついたときから、携帯電話は当たり前のように存在していた。そんな環境にあった私のような若者が、「昔」を武器に意見する大人に太刀打ちできるわけがない。

 

昔の笑いは面白かったと言う人は、誰かを傷つける笑いへの懐かしみや憬れを捨てきれないのかもしれない。昔は今よりもっと個人が声を上げづらく、理不尽が溢れていた。社会における理不尽とは、正論が通じないことや、自分が正当に評価されないこと、つまり長いものに巻かれる的なものである。また、お笑いにおける理不尽とは、縦社会の中の圧力や笑いの点数化など、自分自身が経験しなくても、そんな場面を見た人は多いのではないだろうか。そんな時代、誰かを傷つける笑いは、理不尽に抑圧された秘めた思いをブレイクスルーできる存在だった。誰かを傷つける笑いは、理不尽に耐える大人たちに束の間の解放感を与えてくれたのかもしれない。

 

しかし私は「昔」を知らないから、「今」と比較して反論することができない。過激な作品が減ったことによって、それは普通のことであって、仕方ないと思う人もいれば、昔のほうが面白かったのにそれを知らないなんてかわいそう、という同情の意味にすり替えられることもある。

 

大人が書き換えた笑い

 

誰も傷つけない笑い論争によって、今の若者は、面白い笑いを知らなくてかわいそうという思想と、これが普通、むしろ過激な作品が減って安心して笑いを楽しめるという思想の対立が浮き彫りになった。それと同時に、この対立による波が、私のような若者に押し寄せている。

 

誰かを傷つける笑いが好き・面白い、嫌い・面白くないという人々が、いまの大人の世代では同時に存在していた。SNSの普及によって嫌い・面白くないという人たちの声が大きくなり、みんなが許容する笑いの範囲が狭くなった。その結果残ったのが誰も傷つけない笑いだ。

 

若者が知らないうちに起こっていた対立によって、誰かを傷つける笑いが疎まれ、誰も傷つけない笑いしか残らなくなった。そして、私たち若者はそれを知る由もなく、大人によって、誰も傷つけない笑いしか知らない状態になった。

 

繰り返すが、しかし、私は「誰も傷つけない笑い」論争に対して反論する方法を知らない。個人の声が大きくなり、自由に発言できるようになった今は、その自由に対する取り締まりが行われているように思う。今の社会は、毎日誰かが炎上し、誹謗中傷を受けている不寛容社会である。悪い、良くない、過激、嫌いという概念の小さな片鱗を見つけた誰かが批判すると、すぐに仲間を巻き込んで少数vs. 多数の戦いが繰り広げられる。

 

武器と盾

 

大人になれば、理不尽に耐えるべきだという風潮がまだ日本には存在するように思う。昭和・平成の時代には、年功序列や同調圧力によって、異を唱えにくい空気が纏わりついていたのではないだろうか。とはいえ、実際に激動の時代を駆け抜けるために理不尽に耐えることは、大人にとって必要なスキルだったのかもしれない。私が学生時代に経験した、ブラック校則のような理不尽も大人が聞けば、「なんだそんなことか」と言われてしまうような気がする。子どもの頃から自分の身に起こった小さな理不尽によって耐性をつくり、より大きな理不尽が横行する社会に出る準備をしているようだ。

 

私は、世の中の理不尽に反論する方法を知らない。反論する武器も、攻撃を受けたときに守る盾もどこにあるのか知らない。私が大人に教えてほしかったことは、理不尽に耐える方法ではなく、理不尽と戦う方法だ。

 

しかし、理不尽が溢れる今の社会に、何をしても無駄だという無力感を抱き、絶望するには早すぎる。私はまだ、この社会を変えられるというわずかな望みと、変えてやるという確かな野心を持っている。

culture
2021/05/14
執筆者 |
早希
(さき)

20歳。自由を愛する、生粋の大阪人。甘いものが嫌いで、辛いものが好き。自他ともに認めるAB型。

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