1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
7月18日に藤本タツキの読み切り「ルックバック」が「少年ジャンプ+」で無料公開され、わずか1日で閲覧250万を記録した。私もその閲覧数にカウントされているひとりである。これを読んでいるあなたもおそらくそうなのだろう。この作品を最初に読んだ時、私は泣いた。これを読んでいるあなたもそうかもしれない。
すでに多くの人が語っている通り、まず何より、映像的に構成された作品のストーリーテリングが素晴らしくて泣いた。タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』などほかの作品を引き合いに出すまでもないかもしれないけれど、こうした作品と同様の手法を用いた、現実の悲劇とは異なる、「あるべきだった現実」、誰も死なないですんだはずの可能性が、しかもコメディを交えて描写されている優しさに泣いた。そして、その「あるべきだった現実」が、実際には亡くなってしまった京本の愛らしい4コマ漫画によって、先取られていたという設定に泣いた。さらに、繰り返し挿入され、ラストシーンにもなっている、漫画を描いている藤野の後ろ姿に泣かされた。何かをクリエイトすることの覚悟と孤独が詰まった、少し傾いた姿勢で机に向かう背中は、日本のさまざまな場所で、さらには日本という枠を超えて、何かを作っている、作ろうと今日もデスクに向かう人たちを鼓舞したことだろう。
一読してわかるように、この作品は2019年7月18日に36名もの若いクリエイターの命が奪われた「京都アニメーション放火殺人事件」を参照している。私はこの「ルックバック」という作品を、長い時間をかけて考え抜かれ、構成された、深い哀悼として受け取った。2010年代の後半には、2016年に「やまゆり園事件」があり、2019年には「川崎市登戸通り魔事件」など、「痛ましい」という言葉が軽く聞こえるほどの残酷な事件が起こった。銃器もない社会で、どこでも手に入るようなナイフや石油で、これほど多くの人たちが傷つけられ、殺められてしまった。これらの事件に共通していたのは、社会的に弱い立場に置かれた男性が、力の弱い女性や子どもや障がいを持った方々を襲ったという点だった。弱者が自分よりさらに弱いものを襲うという事件は、私たちの社会において、近年頻繁に起こっているように見える。弱いものがさらに弱いものに暴力をふるうという悪循環。このサイクルを私たちは止めなければならない。「ルックバック」のなかで藤野が想像した「あるべきだった現実」のなかで、藤野が空手キックによって救ったのは、友人の京本だけではなかったはずだ。つまり殺人犯になりかけた男性を殺人犯にしなかったのも藤野なのである。このような弱い者たちを丸ごと救う、正義の空手キックこそ、私たちの社会が待望しているもののはずではないか。
このように考える私であるから、デリケートな問題に踏み込んだ、この勇気のある作品に対して、批判が生じる状況を見るのはつらかった。何を表現しても足りない要素はあり、それを指摘することは容易なことだ。美味しいうどんを作ってくれた人に対して、「蕎麦はないのか」と言うのは簡単である。さらに「あなたはうどんなんか作って、蕎麦屋の気持ちは考えたことがあるの」など、言おうと思えばさまざまな苦言を呈することができるだろう。言うまでもなく、インターネットによって、ていねいに供されたうどんに対して「蕎麦はないのか」と即座に言い返す状況は加速している。しかも作者に対して理解してもらえるように意見するのではなく、不特定多数の観客に向けて「蕎麦はないのか」と放言することに、大勢の人が慣れてしまっていることに恐怖を感じる。目の前のものを条件反射的に叩くのではなく、この作品が見事に表現したような、弱いものがより弱いものを叩く状況を作っている原因、そんな社会状況を作り、温存している「真の敵」こそを見定めて、全力で攻撃すべきなのではないかと問いかけたい。
「〔日本文化では〕ドラマも小説も、社会的義務と人間の感情との対立に焦点を当てていることがよくある。これは社会的抗議や分析がアーティスティックな伝統を持っているということではない。(…中略…)日本のアートの形式は、概して思想よりも感情に集中するが、感情には、それをサポートする一連の思想がない場合にも、社会秩序に抵抗する可能性がある。(…中略…)17音節の詩や生花さえ、個人的な不幸に対する感情的な抵抗を表現することができるのだ。」★1
これは、ロバート・ベラー(1927〜2013)という宗教社会学者による『Imagining Japan: The Japanese Tradition and ItsModern Interpretation』(Univ. of California Press, 2003)の一節である。日米を主な研究対象とした彼の著作は、代表作の『徳川時代の宗教』(池田昭訳、岩波文庫、1996)をはじめ日本語に翻訳されているものも多いが、この未翻訳の晩年の論集には、日本文化全般に対する的確な批評が見られる。党派制や人間関係が全面化している日本社会において、普遍主義や個人主義の探究は、政治の外部に位置付けられるアート、宗教、哲学などの分野で主に探究されてきたとベラーは論じている。一旦政治の内部に入った途端に、マルキシズムや仏教のような普遍的な原理を追究する思想や宗教でさえ、党派的な政治と化してしまうのが日本社会だという指摘は鋭い。言い換えるならば、日本の「政治」の領域では、主義や思想の一貫性は重視されず、「あちら」なのか「こちら」なのかという立場性が中心になっているということだ。だからこそ、一旦政治になるとあらゆるジャンルで内ゲバ的な叩き合いが生じてしまう。アートや芸術の領域だったとしても、生花やお茶を見ればわかるように、社会のなかである程度の政治力を得る段階になると即座に、〇〇流を作って党派争いを始めるのである。私たちはインターネットでの「クソリプ」よりはるか昔、蘇我氏・物部氏時代からこうした行動パターンを連綿と続けている共同体の末裔であることを自覚するべきなのかもしれない。
ベラーの議論に則すならば、日本で普遍性や個人主義を追究できるのは、政治的領域から「出家」し、座禅を組む修行僧のように、孤独のうちに営まれる芸術・思想・宗教においてだということになる。私は、近年の日本のサブカルチャーのなかに散見される、非常に本質的な社会批評やストレートな正義への渇望を見るたびに、このベラーの図式を思い起こさずにはいられない。とりわけ今回発表された藤本の「ルックバック」はそれ自体、政治的領域の外部にいるクリエイターについての自己言及的な物語であることから、なおのことベラーの図式を想起させるものだった。「中学で絵描いてたらさ……オタクだと思われて、キモがられちゃうよ……?」という藤野に向けられた同級生の言葉と表情には、日本社会を動かしている「政治」とは何かを、一瞬で理解させる力がある。さらに、こうしたマジョリティの「政治」をどうしても内面化せざるをえない藤野の心理描写もていねいに描かれており、一貫して外部にいる京本によって藤野が解放される部分も含めとても現実的で、胸に迫るものがあった。繰り返し象徴的に描かれる、藤野がデスクに座る後ろ姿もまた、まるで禅僧のように見えると言ったら言い過ぎだろうか。
タイトルの参照元となっているというUKロックバンドのオアシスの名曲「ドント・ルックバック・イン・アンガー」の歌い出しはこうなっている。
「Slip inside the eye of your mind. Don't you know you might find. A better place to play.
(心の目を内側に向けるなら、もっといい遊び場が見つかるって知ってるだろ?)」
「歌詞の意味はわからない」と言い張るノエル・ギャラガーが書いたものとは言え、この言葉は美しく、力強い。私たちは、今、政治や社会について構造的に捉え直し、さまざまな不正や負のサイクルを断ち切る方法を考えるべき時代を生きている。全面化する党派政治の内部で正しさが消滅している状況、同時にその外部では、弱い立場の者がさらに力の弱い者を殺すという状況が生じている。この状況をこれ以上続けることはできない。こうした理解を前提に「ルックバック」を読む時、現在の社会秩序への抵抗を立ち上げるために、自分の内面や感情に向き合うことが、結局のところ何よりも必要とされていることに改めて気付かされる。それは「ドント・ルックバック・イン・アンガー」が文字通り示すように、感情に溺れ、「怒りに囚われ過去を振り返る」ことではない。そうではなく、最も弱い立場の者が被る暴力は、ポリティカル・コレクトネスのテンプレートの手前で、私たち自身が細やかに痛みを感じることでしか、捉えられないからなのだ。最も痛みを感じている者は誰なのか。私たちは誰のために、何のために、怒り、悲しんでいるのか。政治の外部に留め置かれている作品たちは(このように外部に置かれていることも最良の状態とは思えないが)、悲しみや怒り、そして痛みの所在を、丁寧に描き込まれたイメージの連鎖によって証言し続けている。
不可思議なほどに党派的で、他人を叩くことに夢中になりがちな私たち日本人にとって、自分の内面や感情に立ち返ることは、大切なものが何なのかを見失わないために、むしろとても意味のある手段なのではないかと思い始めている。
注
★1──Robert N. Bellah, Imagining Japan: TheJapanese Tradition and Its Modern Interpretation, Univ. of California Press, 2003, p.135. 拙訳。
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa