1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
東京オリンピック開会式の日、SNSのタイムラインに『AKIRA』の金田の姿があった。大友克洋が2020年のオリンピックを予告していたと話題にもなった、唯一無二の傑作『AKIRA』(映画版=1988年)の金田である。全身赤で統一された服装の金田のイメージ、伝説の金田バイクがオリンピックスタジアムに乗りつける動画など。それらの画像を投稿した人の何割かは「文春オンライン」で報道された、実現しなかったMIKIKO氏演出による開会式を惜しむ人だったはずだ。
じつはその日、金田の画像をポストしていた別の集団がいた。こちらのグループは、金田の画像の横に、金田によく似た、赤色で全身を包んだアーティスト、カニエ・ウェストの画像を貼っていた。その多くはHIP HOPを愛聴する人たちであり、そのなかの何割かは熱心なカニエのファンだっただろう。カニエが金田の赤いライダースジャケットに見立てて着用していた上着は、7月14日に日本でも26,000円で発売即完売した。
2021年7月22日、東京オリンピックの開会式の前日に、カニエ・ウェストは、金田のような装いで、アトランタのメルセデスベンツ・スタジアムで新譜『DONDA』のリスニング・パーティを行っていた。アトランタは黒人のメッカとも呼ばれる南部のブラック・カルチャーの中心地であるが、おそらくカニエの生誕地であるから選ばれたのだろう。カニエが開催したリスニング・パーティとは、いわゆるライヴではない。亡くなった母親に捧げたニューアルバム「DONDA(=母親の名前)」を巨大スタジアムでカニエ自身が視聴し、42,000人の観客が彼の試聴を見守るという、不可思議なイベントなのである。ストッキングのようなマスクを被り、Yeezy風の洗練を加味した金田ファッションで決めたカニエは、スタジアムに現れ、最初から最後まで一言も声を発さなかったそうだ(そもそもマイクを持っていなかった)。時折跪いたり、顔を覆って泣き崩れたり、プロテストのように片腕を上げたりする姿は、覆面も相まってオリンピック開会式のピクトグラムにちょっと似ていたが、これはもちろん偶然かつ瑣末なことだ。カニエがオリンピック開会式の前日に、金田となって巨大スタジアムでイベントをやったことには、はたしてどのような意味があったのだろうか。
HIP HOPアーティストのカニエ・ウェストは、大友の映画『AKIRA』について、これまで何度もアニメ作品の最高傑作だと絶賛し、自分のインスピレーションの源だと述べてきた。2007年の彼のヒット曲「Stronger」のPVが『AKIRA』へのオマージュになっていることはHIP HOPファンには広く知られている。
実際、カニエ・ウェストという人物は、彼が熱愛する『AKIRA』の申し子のような人間だと思う。両者に共通しているものを一言で言うならば、極小から極大への、もっとも矮小なものから崇高なものへの逆説的なリープ(跳躍)である。よりフランクにこうも言えるだろうか。それは、どうしようもない「クソガキ(=子ども)」でいながら、いやむしろ「クソガキ」であるからこそ、この世の始まり=ビッグバンに匹敵するような膨大な創造的エネルギーに触れることができるという世界観だ。『AKIRA』のなかで、「絶対的なエネルギー」を持つ「子ども」とは、まず第一に作品の中心に存在するアキラである。そして実験体として育成されたキヨコ、タカシ、マサル、子どもっぽい劣等感に苛まれつつ絶大なパワーに覚醒した鉄雄がその系譜に連なる。Netflixの人気ドラマシリーズ「ストレンジャー・シングス──未知の世界」の制作者ダファー兄弟を筆頭に、この宇宙規模のエネルギーを内蔵させた「子ども」という『AKIRA』の設定は、世界のクリエイターにも大きな影響を与えた。
カニエが模していた金田は、『AKIRA』の作品世界の「子ども」たちのなかでも、テクノロジーに介入され、特殊能力としてエネルギーを暴発させる他の登場人物たちとは一味違う、等身大の身体で大活躍するヒーローとして登場する。能力を覚醒させた後、テレキネシスで凄まじい破壊行為を行う鉄雄に対して、「汚ねえぞ鉄雄! 素手で勝負しろ!」と怒鳴って拳を振り上げ、レーザー銃のバッテリーが切れてしまうと、律儀にバッテリーを2台バイクに積んで再登場する金田は滅茶苦茶カッコいい。彼こそ、カニエを含め、レオナルド・ディカプリオなど多くのクリエイターを惹きつける「クソガキ」の英雄である。強大な力に対して、金田はいつでもその身ひとつで、何の悲壮感も躊躇もなく、立ち向かっていく。
7月22日に、金田と同様、身ひとつで、ラッパーなのにマイクさえ持たずにスタジアムに降り立ったカニエは、アートが「社会」という文脈に飲み込まれどんどん萎縮している時代にあって、もはや絶滅危惧種といってよいほど大胆で「クソガキ」的なアーティストだ。2009年のMTVミュージック・アワードでテイラー・スウィフトのスピーチに乱入し、オバマ大統領に「Jack Ass(大バカ者)」と呼ばれる前から、カニエはずっと愚かな「クソガキ」として、矮小さと、矮小であるがゆえの崇高さを同時に表現し続けてきた。自分の大学中退をタイトルにしたデビューアルバム「My Collage Drop Out」(2004)では、しょんぼりした着ぐるみのクマ(『AKIRA』のタカシのテディベアによく似ている)に扮し、ジャケットに写ったカニエ。彼はこのアルバムのなかで、人種差別を告発するシリアスな「Jesus Walk」と、自らの不注意による交通事故で負傷し顎にワイヤーを入れたことをラップした「Through the Wire」を見事に共存させた。K・W・グレイヴスが「バカバカしさと崇高さが絡み合った」と表現するこのカニエの手法は★1、作品制作の方法を超えて、カニエという人間の根本原理になっており、そのスケールや振れ幅を徐々に拡大しながらも、基本的には少しも変わっていない。
2018年には、カニエは「奴隷制は自由選択だった」と発言し、人種差別主義者=トランプ支持の象徴であるMAGAハットを被って見せ、多くの黒人たちを悲しませ、呆れさせた。そんな彼のわざと人々の気持ちを逆撫でするような「子ども染みた」態度は、しばしば誇大妄想的だとか、リベラルへの「逆張り」をする新自由主義者だとか、単に金のあるほうに近づく拝金主義だと非難されているが、それほど単純な話ではないように見える。
カニエの論理は、真の自由を得るためには「力 power」を得ないといけないということに尽きる。彼の音楽を聴かない人はカニエが言う「力」をお金に還元して捉えがちだが、経済力に限定されない、自分を何かに隷属させないための「力」である(哲学に関心がある方はニーチェを想起いただきたい★2)。彼は、左派として現行の制度を批判することに自足し、結果的に差別的な状況を変えられずにいる同胞=黒人に対して「黒人という枠に捉われないで」どんどん活躍の場を広げて欲しいというメッセージを送り続ける。カニエの考えでは、「奴隷であること」は黒人の精神的なレベルで持続しており、その隷属にこそ抵抗しなければならない。私はこのカニエの問題提起を知ったとき、どんなに不本意な状態であっても多くの人が沈黙を選ぶという日本人の現状について考えさせられた。長期の隷属状態によって生まれた黒人の「無気力」と私たちの沈黙はどこか似ているように見えるからだ。カニエの訴え、つまり「ただ現行の社会のなかで認められるように努力しているだけではダメなんだ」という叫びは、そのように考えると、より切実なものとして響いてくる。
カニエは、どんなに才能があり、努力をし、富を得ようとも、彼自身も突き破ることが未だにできない、差別という天井を見つめ続けている。多くの人が見つめ続けることに徒労感を感じて止めてしまうなかで、その天井の上に広がっているはずの天空に手を伸ばそうともがき続ける彼は、けっして頭がおかしい宗教家でも、計算高い拝金主義者でもない。子どもであるがゆえに利かん気で生意気で、自由を諦めない、それがカニエである。メンタルヘルスの不調も自らの過去のポルノ映画中毒も隠すことなく、自由を求める「子ども」として、人間の評価(それはどうやっても差別を含む現行のシステムと無関係にはありえない)を超えた領域に届こうと★3、カニエは「神」を信じ、音楽を作り続ける。ニューアルバムは再度発売延期が発表されたばかりだが、カニエ自身はメルセデスベンツ・スタジアムに引っ越し、アルバム制作を続けているようだ。本日7月31日には、2回目のリスニング・パーティが8月5日に決定したようだ。
「アキラって絶対のエネルギーなんだって。人間ってさ、一生の間にいろんなことをするでしょう? 何かを発見したり、造ったり、家とかオートバイとか、橋や街やロケット。そんな知識とかエネルギーってどっから来るのかしら? 猿みたいなものだったわけでしょう、人間って。その前は爬虫類や魚。そのもっと前はプランクトンとかアメーバとか。そんな生物のなかにもすごいエネルギーがあるってことでしょう?」
映画『AKIRA』のなかで、ケイが金田に語る一節である。生命の根拠としてのエネルギーについて問うこの作品には、たとえ無謀であろうと天空に手を伸ばす子どものような勢いがある。チェルノブイリ原発事故(1986)をはじめとする原子力への関心がこのような作品を生んだという指摘も間違いではないが、作者の大友自身は、インタビューで、この作品のインスピレーションを東京という都市から得たと述べている。作品が作られた当時の東京、そして日本には、矮小なものから崇高なものへの飛躍、そうした子どものような無鉄砲さが、たしかに存在していたのだろう。
永遠の「クソガキ」であるカニエは、オリンピック・イヤーという絶好のタイミングに、金田となって、黒人たちのメッカ=アトランタに降り立った。しかし、本当に金田を必要していたのは東京だったはずだ。私はやはり2021年7月23日、MIKIKO氏演出の開会式で、金田バイクが、東京のオリンピック・スタジアムを疾走するのを見たかったと思う。この思いは1980年代という過ぎ去った過去に対する回顧やノスタルジーによるものではない。そうではなく、私たちのなかに潜在しているはずの「クソガキ」が覚醒するきっかけを、今か今かと待ち望んでいるからなのだ。
注
★1──カーク・ウォーカー・グレイヴス『カニエ・ウェスト論──《マイ・ビューティフル・ダーク・ツイステッド・ファンタジー》から読み解く奇才の肖像』(池城美菜子訳、DU BOOKS、2019)
★2──J. Bailey, The Cultural Impact ofKanye West, Palgrave Macmillan, 2014.
★3──2019年頃からカニエはキリスト教への信仰を全面に出した楽曲づくりやパフォーマンスをしているが、それもまた自由を求めた結果の論理的帰結であることが、2019年のゼイン・ローヴェによるロングインタビューから理解できる。
カニエは、かつての自分にとって「カルチャーこそが神だった」ことを認めたうえで、カルチャーは所詮人間の評価に従属していることに気づいたと言う。だからこそキリスト教に改めて回心したカニエは、もはや人間の評価の奴隷ではなく「自由」になれたのだそうだ。「僕は今ここに誰かを楽しませるためにいるのではない(I’m not here for anyone’s entertained.)」とローヴェに語るカニエは、ここでも周囲の評価に耳を塞ぎ、なんとか天に手を伸ばし続けようとしている子どものように見える。愚かな子どもであり続けるカニエの作る曲はそれが宗教をテーマにしていても「説教くささ」がないと評価されているがまったく同感である。
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa