ケンドリック・ラマー突然のSNS投稿から電気グルーヴ「FUJISAN」までの2日間の記録──詩的言語のためのアポロジー
私たちは今、社会の不平等の原因である構造的問題が露わになった時代を生きている。他方で、アーティストやミュージシャンが、社会科学的な言語を巧みに操って「政治的に正しい」ことを言わなかったとしても、まったく別の仕方でメッセージを出している可能性は否定できない。なぜなら彼らは詩人だからだ。
#ケンドリック・ラマー #横浜市長選挙 #フジロック
culture
2021/08/24
執筆者 |
elabo編集部

8月21日 Oklama=ケンドリック・ラマーからのメッセージ

 

日本時間2021年8月21日の深夜に、突然SNSにケンドリック・ラマーの投稿があり、非常に狼狽した。

 

elaboの編集部には、ケンドリック・ラマーを敬愛する者が複数いて、新作を心待ちにしている者もいれば、期待しすぎてかえって不安になっている者もいる。思えば、ケンドリックは随分長い間、沈黙していた。2015年にサードアルバム「Pimp a Butterfly」をリリースし、「Alright」のヒットのなかで預言者的詩人・革命家のように評価されていったケンドリック。彼が、当時の大統領オバマにホワイトハウスに招かれる、ピュリッツアー賞受賞という偉業をなしとげていくなかで、実はトランプ政権に至る保守のバックラッシュが着々と起こっていたという悲劇も同時進行していた。2016年にトランプが大統領になり、その現実に対する怒りが凝集した「DAMN.」がリリースされた2017年。そして2018年には、彼は、さまざまな黒人アーティストたちの力が結集した映画「ブラック・パンサー」のサウンドトラックを制作した。その後、トランプ政権の後半、ケンドリックはほとんど公的に発言をしなくなった。2020年のコロナ禍でのBlack Lives Matterムーヴメントの中でさえ、ケンドリックは数回デモに姿を現しただけで、基本的には姿を消していたのである。その間彼には子供ができたり、レコードレーベルTDE (=Top Dawg)から独立するようだとか、PGLangと何かをするようだ等の断片的な情報は入ってきたが、ケンドリックは一貫して沈黙し続けていた。Black Lives Matterが盛り上がっている最中には、そのような彼の態度に対して、「一番必要とされている時に何もしない」という批判までSNS上では散見された。

 

ケンドリック・ラマー & シザ『ブラックパンサー ザ・アルバム』(2018)

約3年の沈黙を破って、ケンドリックが全世界に送ってきた「nu thought」フォルダをクリックすると、以下のテキストがタイプされていた(訳はelabo編集部)。

 

私は一日の大半を、つかの間考えることで過ごしている。書くこと。聴くこと。そして古いビーチクルーザーを集めること。朝のサイクリングは、私を静寂の丘に留めてくれる。

 

私は何カ月も電話を使わずに過ごしている。

 

愛、喪失、悲しみは私の心地よい居場所を乱したが、神のかすかな煌めきは私の音楽と家族を通して語りかけてくる。

 

私を取り巻く世界が進化する間、私は最も重要なことについて考えている。私の言葉が次に着地するだろう人生について。

 

TDEでの最後のアルバムを制作しながら、17年の時を経て、このような文化的な刻印の一部であったことに喜びを感じている。葛藤。成功。そして最も大切なのは、ブラザーフッドだ。至高の存在〔神〕が、Top Dawgを、率直なクリエーターのための器として使い続けてくれますように。私が自分の人生の天職を追求し続けることができますように。

 

成し遂げることなかには美しさがある。そしてつねに未知のもののなかには信仰がある。

 

私のことを考えていてくれてありがとう。皆さんのために祈っている。

 

またすぐに会おう。

 

- oklama

 

メッセージの内容は、基本的にケンドリックがTDEから独立すること、現在TDE所属中最後のアルバムを作っているという報告だが、それが全体として簡潔で美しい祈りになっている。「信仰」と訳した言葉は「faith」だが、別に過剰に宗教的な意味を読む必要はない。「未知のもの the unknown」はここではケンドリックの新しいプロジェクトのようにも思われるが、私たちを取り巻く今の状況にも読めるし、単純に未来を指すようにも見える。そこでfaithは、私たちを前に向かせる原動力だと、彼の澄んだ言葉を読み、改めて気づく。

 

8月22日 横浜市長選挙/フジロック・フェスティバル最終日

 

ケンドリックの発信に続くようなかたちで、TDEから独立するのではないかと噂になっているSZAが、サウンドクラウドで3曲の新曲をリリースしたこの日、日本では、その開催の是非について、感情的な議論を引き起こしたフジロック・フェスティバルが最終日を迎え、他方では、国政選挙を占う意味でもきわめて重要な、横浜市長選挙が行われていた。

 

私たちはとりあえず、長引くこの状況、つまり改善が見られない無策と感染拡大に、とてもとても疲れていることを互いに認めたほうが良いように思う。そして、言葉で傷つけ合うことを極力避けた方が良いのではないか。私たちが、多くの人を見殺しにするような現在の国政を変えるために、決定的にダメージを与えなければいけない相手は、tweetで非難を浴びせるくらいでは痛くも痒くもない場所にいる。身近な叩きやすいものを叩くよりも、今の失望や根本的な怒りを、擦り切れないように持続して、大きな結果に結びつける方法を一緒に考えたい。例えば私たち編集部についても、全員が恒常的に野党支持をしているわけではないが、現状がよくない、変えなければならないという点では一致している。陳情しても署名しても駄目ならば、やはり選挙で代表を変えるしかない。その意味で野党が手を組んで、しかもコロナ対策をひとつの争点に医療者を候補者に立てた横浜市長選挙の意味は大きく、まずここで勝ったことを、変化を望む者として「喜ぼう」と言いたい。

 

20:00に横浜市長選の結果を聴いて安堵し、フジロックの最後はどのように終わるかやはり見届けたいと思った。20:00以降のグリーンステージでのCHAIと電気グルーヴが圧巻であったことは、すでに多くの人が感想を出している通りである。研ぎ澄まされた存在感と演奏だった。特に電気グルーヴは、フジロックの直前に公開されたドキュメンタリー映像で、自分たちが、相当の覚悟をもってフジロックに出演することを示していたこともあり期待していたが、予想以上の、一点の曇りもない復活ライブを見せてくれた。

 

電気グルーヴの曲というと、多くの人が、歌詞はわりとどうでもいいと思っているのではないだろうか。基本人をおちょくっているようなその歌詞は、圧倒的なサウンドや瀧氏の愉快なパフォーマンスに比べると、注目されないことが多いと思う。今回のステージで印象的だったのは、筆者自身がこれまであまり注目していなかった歌詞が、異常な重みを持って迫ってきたことだった。

 

まず1曲目の「Set you free」。2020年のコロナ禍で発表されたこの曲の「Set you freeはじめからSet you free Set you free ハナから Set you free」というフレーズは、わだかまりと葛藤でくたびれ果てている私たちを、ひと時解き放った。

2曲目のトランプ大統領を念頭に置いているように見える「人間大統領」については、「人間あやめて大統領、人間だけに大統領」などのフレーズが、現在の日本国の首長に驚くほどぴったりで、「もしかして電気グルーヴってすごく政治的なグループ?」(絶対違う)という疑念さえ抱かされた。

7曲目「SHAME」の「死刑執行 罪なきものにも裁きを」という一節は、今こうして音楽を聴いている間にも、コロナ禍という、現実に「罪なきものたち」の命も奪っているだろう人類規模の災禍の只中にいるという現実を私たちに突き付けてきた。オンラインで観ていた者としては、相当の感染リスクを負ってステージ前にいる群衆はどのような心持ちでこの曲を聴いているのだろうと思い、恐怖を感じたのも事実である。

そして15曲目の「N.O.」の以下の歌詞は、行動が制約され、終わりの見えなさに疲弊し、途方に暮れる私たちの嘘偽りない心境を表すものとして、あまりにも心に染みるものだったと言える。

  

仕方ないなとわかっていながら

どこかイマイチわりきれないよ

先を思うと不安になるから

今日のトコロは寝るしかないね

 

この初期の名曲「N.O.」から怒涛のように突入した「レアクティオーン」では、印象的な「東京の若者のすべてがここに集まっています」という男性アナウンサーの声のサンプリングが不気味に繰り返される。このフレーズを繰り返し聴いているうちに、複雑な感情が込み上げてきた。よく知られているように、フジロックはもはや若者のフェスではなく、40代以上を中心とした中年のフェスである。しかし、今回の開催の是非を巡る議論では、何度かメディアでも若者が槍玉に上げられ、ほとんど意図的とさえ思える仕方で市民を分断する事態が起きていた。「東京の若者のすべてがここに集まっています」というサンプリングはアイロニカルであると同時に、それを50代の電気グルーヴが自覚的に演奏するという点で強烈なインパクトがあり、ある種の崇高ささえ漂わせていたように思う。真逆の意味の言葉を結び合わせ、独特の効果を狙う撞着語法という修辞法があるが、最後に「FUJISAN」で大団円を迎えたこのステージ自体が、もはやこれ以上なくユーフォリックであると同時に私たちの今いる不幸を痛切に感じさせるという意味で、きわめて撞着的なものだったと思う。慰めでもなく現実逃避でもないライブを、この状況でやってみせた電気グルーヴに、深い畏敬の念を抱いた夜だった。

 

言葉の多様性が深い呼吸をさせてくれる

 

以上の電気グルーヴの歌詞の解釈は、あくまでも筆者が行なったものであり、電気グルーヴの石野氏と瀧氏はそんなことを一抹も意図していない可能性もある。しかし、それでも全く問題はない。それが詩的言語だからだ。単に聴くものが解釈するからという以上に、先に挙げた過去のさまざまな時期に石野氏・瀧氏によって書かれた歌詞群は、そもそもが広い射程をもった比喩的な言語だからこそ、2021年に置かれた時に、新たな意味を持ちうるのである。

 

石野氏は、ホルガー・ヒラーというドイツのミュージシャンのインタビューの以下の一節に、決定的な影響を受けたと述べている。ヒラーはダダイズムからこうした詩作の着想を得たそうだ。

(ホルガー・ヒラーのくだり 30:42〜)

 

次から次へと思いつく

陳腐なことを重ねていくと

「スーパー陳腐」なことが出来上がって、

言葉の裏にある

新しい意味を開拓することができる。

──「Yahoo! Japan ニュース」2021年8月1日

 

石野氏は、ゴミも山のようにあれば「ゴミ屋敷」だし、そうなったら「ゴミでももう屋敷だからね」と述べる。瀧氏は、この石野氏の言葉に「カテゴリーが変わるという話ですからね」と適切に補足をしているが、まさにこうした飛躍的な効果を生み出すのが詩的言語の可能性である。筆者が震撼した「罪なきものにも裁きを」や「東京の若者のすべてがここに集まっています」もまた、個々に見れば「スーパー陳腐」とも言える、ぺらぺらの表現であるのは間違いがない。しかしそうした陳腐な言葉が、曲順なども含め、絶妙に組み合わされ、あるいはリフレインされることで、それらの言葉に潜在する別の意味の可能性が強く立ち上がってくるのである。

 

私たちは今、社会の不平等の原因である構造的問題が露わになった時代を生きている。ある意味ではポリティカル・コレクトネス全盛の時代にあって、言語表現においても、「○○イズム」「○○主義」など、問題を鋭く名指す社会科学のボキャブラリーが優位になっていると感じる。日々、差別を細かく名指す概念が次々に生まれている印象さえあり、差別など存在しないほうがよいと思う者にとってでさえ、少々息苦しい。

 

他方で、そうした社会科学的言語とは異なる表現方法は本来たくさん存在する。すでにある暴力を名指すための言葉もあれば、ケンドリックの言い方では「未知なもの(the unknown)」を志向する言葉もあるだろう。アーティストやミュージシャンが、社会科学的な言語を巧みに操って「政治的に正しい」ことを言わなかったとしても、まったく別の仕方でメッセージを出している可能性は否定できない。なぜなら彼らは詩人だからだ。ケンドリックの沈黙でさえ、寡黙な彼にとってはひとつの詩である可能性がある。多様な言語表現が存在することで、性急に批判対象を名指すのとは異なるテンポで、私たちは深い呼吸ができるようなるのではないだろうか。幸い、このなかなか心が休まらない日々を、私たちは優れた詩人たちとともに生きている。8月21日、22日は、そうした今ここにある光明に気づくことができた2日間だった。

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