21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。
21歳。経済学部出身。行動経済学を学んでいる、めっちゃ明るいサブカル好き。
世界中で未知の感染症が流行した。
ある国の政府は、ある時には活動を自粛しろと言い、別の時には国際的なイベントをやって多数の外国人を受け入れるなど、一貫性のない施策を続け、国民への支援を怠り、感染症の抑え込みに失敗した。
多くの国民を苦しめているにもかかわらず、政府関係者やメディアの大部分は
「首相を支持した人の自己責任だし、私たちは悪くないよね」
「だよね。彼らが悪いんだし、私たちは関係ないよ」
と一人のリーダーにすべての責任を押し付けて、感染症への対策という目の前のプロジェクトから逃げていった。
そして、政治家たちは何食わぬ顔で次期リーダーの選定という次のプロジェクトに移って
A「私がリーダーに相応しい」
B「いや、今は私がリーダーになるべきでしょう」
C「君たちではダメだ。今こそ私が……」
とワイワイものごとを進め始めた。
ほぼすべての国民はこのプロジェクトに参加する権利もないまま、先行きの見えない社会のなかで生きている。
新型コロナウィルスが国内で流行し始めて、約1年半が経った。この感染症が社会にどのような問題を生じさせ、今なおどのように人々を苦しめ続けているかは最早言うまでもないだろう。日本国内は、大都市圏を中心として、緊急事態宣言下にある。そのような状況のなかで、4週間におよんで世間を騒がせ続けているのが自民党総裁選だ。
新聞やテレビの報道番組、ワイドショーで、ひっきりなしに取り上げられる自民党総裁選関連の情報。菅義偉首相が出馬しない意を表明してからというもの、どの議員が出馬するのか、何派の議員が誰に味方するのか、最有力候補は誰なのかといった趣旨のコンテンツをさまざまな場面で見かけるようになった。このような報道に、違和感がある。まず前提として、国民の命を脅かす文字通りの緊急事態のさなか、何派の議員が何人いて誰に付く見込みだとか、誰が誰を支持する・しないことを表明したといった、人間関係をベースにした一党内での内輪もめがここまで取り沙汰される必要はあるのかと疑問に思う。たしかに、自民党総裁になるということは次期内閣総理大臣になるということに限りなくイコールであるため、関心を集める重要なトピックであるとは言えよう。しかしやはり、国民に関与の余地がない政局にここまで注目する必要はないのではないか。
くわえて違和感を感じるのは、こうした報道のなかでの、現在リーダーである菅首相の存在感の薄さだ。2020年9月に辞職した安倍元首相に代わってコロナ禍でのトップとして1年間指揮を執り、東京オリンピック・パラリンピックの開催にも尽力した彼の存在感があまりにもない。
菅首相政権下の1年の間には、言うまでもなくさまざまなことがあったはずだ。数度にわたる感染拡大とそれに伴う緊急事態宣言の発令も、GoToトラベルキャンペーンの中止も、ワクチン接種の開始もすべて彼の在職中の出来事である。感染収束の見込みがない今、国民が次期リーダーに求めることを考えるうえでも、政治家が国民の生活の現在とこれからを考えるうえでも、菅首相が在職中に何を行なったのか、どこに問題があったのかを検討することはごく自然で合理なことではないか。にもかかわらず、彼の存在は抹消されている。まるで彼が辞職することで、在職中に積み上げられた問題が彼とともに消えてなくなるかのように、楽観的は世相を感じる毎日だ。
菅首相が辞め、新しいリーダーが生まれることで、日本社会は変わるのだろうか? 当然そうはいかないだろう。私たちは変わらずコロナ禍の社会を生きるし、それ以外の問題も山積している。その状況で、トップになる人間が代わるだけで、なぜ先行きを楽観視できるのだろうか。しかしながら、現実として世論調査での自民党支持率は急上昇している。
この「過去の抹消」と「現実の楽観視」は、コロナウィルス感染拡大防止に成功したとはいえない政権与党が、リーダーの交代によって問題が解決されるかのような印象を与え、支持を獲得しようとした結果、世間に流布されているものであるのは明らかだ。しかし一方で、このような「過去の抹消」と「現状の楽観視」が世間で少なからず受け入れられてしまう状況の背景には、連続性のなかで社会を捉えられない、どこまでも断片化した現状認識があるのではないだろうか。前述のように、リーダーが誰になろうと、社会が当分コロナ禍にあることは変わらない。にもかかわらず、未来に向けて検証されるべき「過去」である菅首相の存在は抹消されている。過去の行動の連続のなかに今があるのに、さも「過去」「現在」「未来」がバラバラのピースの組み合わせであるかのように考えられているのではないか。だから、社会の一時点を象徴しうる「国のリーダーの交代」によってひとつ先の「未来」に移ることで、悪い状況の「現在」とは異なる世界になるかのような錯覚に陥るのではないだろうか。
断片化の背後にあるものを探し出すために、人々の行動そのものに目を向ける必要がある。東浩紀『動物化するポストモダン──オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001)では、ポストモダンの時代に生きる人々は、自己の欲望を満たすためだけに行動する「動物」のようになると指摘されていた。東の指摘から20年が経過した今、欲求を満たすために消費だけを続ける生き方はより広範に定着するものになったように感じる。それは政治の世界でさえ、例外ではない。今や、個人も政治家も政府もマスコミも、ひとつの個体として「死なない」という最低限の欲求を満たすためだけに生きている。そこには目指すべき未来も検証するための過去もない。ただ生きている今があるだけだ。そのような世界観のなかで、時代は連続性を失い、物語は失われ、すべてが断片化したピースになった。死なないために生きる社会は、一体どこに向かうのだろう。
9月23日、トヨタ自動車の豊田章男社長が自民党総裁選について記者会見でこう語った。
「国のリーダーに今してほしいのは、『正解を出してほしい』じゃなくて、真面目に働いている国民が『今日より明日はきっと良くなる』。そう思える国にしてください。それに尽きると思っています」。
私たちはパラレルワールドに住んでいるのではない。どんなに凄腕のリーダーでも、都合のよい「並行世界」に連れて行ってくれることはないのだ。「今日より良い明日」を生きたいなら、死なないことだけが目的であってはいけない。過去を検証し、よりよい今を積み重ねるから、未来がある。私たちは、そのことを改めて認識し、求めていく必要があるだろう。
21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。
21歳。経済学部出身。行動経済学を学んでいる、めっちゃ明るいサブカル好き。