キャンセル・カルチャーとのフェア・ファイト──「史上最高のコメディアン(G.O.A.T.)」デイヴ・シャペル
「パンチングダウンするためには、あなたは自分をほかのグループより優れているとみなす必要がある。デイヴ・シャペルは、私より自分が優れているとは思っていない。彼はパンチングダウンもパンチングアップもしない、彼はパンチライン〔オチ〕を作っている。それが彼の仕事であり、その道の巨匠なのだ」。
#ポリティカル・コレクトネス #プリンス #DaBaby
culture
2021/10/11
執筆者 |
elabo編集部

パーティが終わった21世紀に、20世紀流の悪ふざけをすること

 

これを書いた時、僕は夢を見ていた

だから、もし迷走したとしても許してね

今朝、目が覚めた時、僕は最後の審判の日かと思ったよ

空全体が紫色で、あちこちに走っている人たちがいた

破壊から逃げようとして

で、わかると思うけど、僕はそんなことどうでもよかったんだ

だって、彼らは言うんだよ

2000年になったらパーティは終わりで、もう時代遅れだって

だから、僕、今夜は1999年みたいにパーティするんだ

──プリンス「1999」(1982)

 

I was dreamin' when I wrote this

Forgive me if it goes astray

But when I woke up this morning

I could have sworn it was judgement day

The sky was all purple

There were people runnin' everywhere

Tryin' to run from the destruction

And you know I didn't even care

'Cause they say...

2000 zero zero, party over, oops, out of time

So tonight I'm gonna party like it's 1999.

──Prince, 1999 (1982)

数日前にNetflixで公開されたデイヴ・シャペルの新作スタンダップ・コメディ「Closer(邦題:これでお開き)」がアメリカで大炎上している。すでに複数の団体からNetflixに対してこの動画の削除勧告が出され、この非難に対し、シャペルも「これがキャンセルされることだとしたら、俺はそれが大好きだ(If this is what being canceled is like, I love it)」と挑発的な応答をした。何よりNetflixが絡んでいることで、日々炎上商法的な様相を帯び始めており、筆者も含めたシャペルのファンでさえ、この状況に対して失望を感じているように思う。

 

デイヴ・シャペルは、昨年2020年にアメリカのコメディの最高の栄誉マーク・トゥウェイン賞を受賞した、しばしば「G.O.A.T(史上最高)」と呼ばれるコメディアンだ。ブラック・カルチャーと深い関係を持つラジオ番組「Breakfast Club」やそれ以外の批評でもすでに言われているように、この炎上状態はある意味ではシャペルの狙い通りのことだろう。彼は率先して、自らがかつて炎上させた火中の栗を拾うかたちで、Netflixの連続オリジナル・ショーの最後を締めくくった。

 

冒頭に挙げたプリンスの「1999」は、「Closer」に先立つNetflixの特別番組「Sticks and Stones(邦題:デイブ・シャペルのどこ吹く風)」の冒頭で、シャペルがアカペラで歌った歌詞で、彼のコンセプトを理解するうえでとても示唆的である。プリンスの物真似をし、生前のプリンスと交流があったシャペルは、多くの人が炎上やキャンセルで大騒ぎしているのに対し、「俺は気にしない」と公言するためにこのフレーズを選んだはずだ。さまざまな批評が指摘するように、この点は非常にわかりやすい。同時に、やはり気になるのは、「1999」のサビとも言える最後の2行で、このフレーズを歌ったシャペルは明らかに、時代の変化を意識しているように見える。

 

「2000年になったらパーティは終わりで、もう時代遅れだって

だから、僕、今夜は1999年みたいにパーティするんだ」。

 

1982年にリリースされた故プリンスによる「1999」の歌詞は、パーティどころではなくなっている2021年現在、改めて読むと空恐ろしい響きがある。「Sticks and Stones」が公開された2019年にはすでに、多種多様なマイノリティの権利を個々に尊重すべきだというポリティカル・コレクトネスが興隆し、それに伴って失言を許さないキャンセル・カルチャーがSNSによって増幅された状況で、辛辣な悪ふざけや大騒ぎは難しくなっていた。そのこと自体が悪いということではなく、大事なのは、シャペルがその点を理解したうえで、それでもなお自分は1999年のテンションで悪ふざけをすると表明している点だろう。シャペルが自覚的に繰り出す20世紀末の強烈なパンチラインは単なる「時代遅れ」なのかどうか、彼のスタンダップを見る時、私たちはその判断を迫られることになる。

 

「Sticks and Stones」でシャペルはLGBTQの「LとGとBとTとQ」の関係を、面白おかしく相乗りのドライブの譬え話で語り(「車を運転しているのはGだ」という具合に)、また#MeToo運動のやり方を批判した。今回、その2年後の「Closer」で、彼は、過去のショーで彼自身が「侮辱した」とされるマイノリティ、つまりフェミニスト、LGBTQ、そのなかでも現在「TERF (トランス排除的ラディカル・フェミニスト)」との関係で一層センシティブに扱われるべきトランスジェンダーのコミュニティをすべて順番にお笑いにした。それに加えて、シャペルはショーのなかで、HIV感染者や同性愛者への差別発言によってさまざまな仕事をキャンセルされたDaBabyをこれ見よがしに擁護してみせた。こうした彼の振る舞いを、炎上と弁明の無限ループと受け取ることもできるだろうが(エンタメ批評誌「Vulture」では「際限のないフィードバック」と揶揄されていた、シャペルはインターネットが普及する以前から、私たちが隠している差別的な意識を容赦無く攻撃してくる芸で一世を風靡しており、やはり昨今の炎上商法とはどこか一線を画しているようにも見える。

 

「Closer」の何が問題なのか

 

Netflixをサブスクしている方にはぜひ「Closer」をご覧いただき、何よりも自分自身で評価してただくのが最良だろう。あらゆる炎上騒ぎがそうであるように、すでにこの件は、実際の作品を自分の目で観ていない人たちも相まっての炎上騒ぎになっている。ぜひご自分でそのショーのすべてをご覧いただきたいということを前提で、問題となっている主なイシューを以下に列挙しておきたい。

 

第一に、#MeTooムーブメント、つまりフェミニストに対する批判である。シャペルは、ゴールデン・グローブ賞で女優たちがブラックドレスで性的暴行やハラスメントに抗議したことに対し、そんなやり方では効果はないと語った。ウーマンズマーチでプッシーハットをお揃いでかぶるのではなく、女優であればまず全員でエージェントを首にして、どこかの企業で頑張っている女性を代理人に立て、「あらゆる仕事は彼女を通して交渉してくれ」と伝えたほうがよい。そうすれば、その代理人の女性の立場も上昇し、一致団結した女優たちの評価も上がり、賃金などの権利問題は大きく進展しただろうと。

 

その後に、「これは自分のアイデアだから、やはりフェミニズムには男性のリーダーが必要だ」と述べ、自分が「女性たちを約束の地に導く」から、女性たちは自分に性的に奉仕すべき(「Suck my dick」)だと悪ふざけをするシャペルにうんざりする人は、彼を時代遅れのミソジニーとして断罪するかもしれない。言うまでもなく、シャペルは、これでは本末転倒であることをわかって挑発している。多くの人が納得できるような鋭い批判をした後で、最終的に自分を最も差別に値する、ゲスな存在に見せるのは彼の得意なパンチライン(オチ)なのだ。

 

第二に、シャペルはカニエのリスニング・パーティーの出演でも物議を醸したDaBabyを堂々と擁護した。シャペルは、DaBabyが行った同性愛差別、HIV感染者差別は論外だと認めたうえで、DaBabyがかつて関与したノースカロライナのショッピングモール(=ウォルマート)での黒人少年の銃殺事件は今回のLGBTQ差別ほどDaBabyのキャリアに影響しなかったことに注意を促す。そして、米国では、LGBTQ差別よりも相変わらず黒人差別のほうが深刻だと総括し、シャペルたちが変わらず差別される側であることに観客の意識を向ける。

 

第三に、シャペルは、J・K・ローリングのトランス・ジェンダーをめぐる発言を擁護し、「ジェンダーは事実」だと断言(これは明らかに「性差は事実だ」の言い間違いだろうが)し、自らを自嘲的に「チームTERF(トランス排除的ラディカル・フェミニスト)」だと宣言した。要するに彼は、生物学的性差があることは認めつつも、トランスジェンダーに対する差別意識はまったくないということが十分成り立つのだと主張しようとした。そして、彼自身とトランス・ジェンダーのコメディアン、ダフネ・ドーマンとの胸を打つ美しい友情の話を披露した。ここでシャペルが紹介したのは、LGBTQをネタにし続けるシャペルに対してダフネが発信した以下のようなtweetである。

「パンチングダウンするためには、あなたは自分をほかのグループより優れているとみなす必要がある。デイヴ・シャペルは、私より自分が優れているとは思っていない。彼はパンチングダウンもパンチングアップもしない、彼はパンチライン〔オチ〕を作っている。それが彼の仕事であり、その道の巨匠なのだ」。

 

シャペルは、このように彼を擁護したダフネが、トランス・ジェンダー・コミュニティから激しい批判を受け、あまりにも悲しい事実であるが、自殺してしまったのだと語った。そしてダフネが遺した娘のために基金を作ったことを報告しながら、「俺たちがどちらも確信をもって一緒に笑えるようになる時まで(until we are both sure that we are laughing together)」もう自分はLGBTQをネタにしないと述べ、すごみを利かせながら、「俺の民をパンチングダウンしないでくれ」★1とLGBTQコミュニティに言い放ち、ショーは大団円を迎える。

 

機能不全になっているパンチライン

 

以上の要約を読んだだけで、すでにレッドカードを出している方もいるだろうか。現時点で米国では意見は二分されており、リベラルなメディアの多くはシャペルを批判し、リベラルのなかでもエンタメ界は概して彼を擁護し、FOXニュースのような保守系メディアは「突如」掌を返したようにシャペルを自分たちの味方として囲い込もうとしている。

 

「Closer」のなかでシャペル自身が語っているように、彼のコメディの中心的なテーマは、女性差別でも、LGBTQ差別でも、とりわけトランス・ジェンダー差別でもなく、一貫してレイシズム=人種差別だった。最後にはすべての文脈をレイシズムの図式で枠づけ直すことによって、警官に射殺される可能性につねに晒されている黒人男性であるシャペルは、観者の前に弱者として現れる。結果、彼がそれまでどんなに厳しいパンチを繰り出していたとしても、パンチングダウンにはならず、最後は対等な殴り合いになり、場合によっては、彼が一番弱い存在として顕在化するというのがシャペルの常套のストーリーテリングだったのである。

 

この手法は、自分のコメディが白人に都合よく消費されていることに危機感を抱いた結果、2006年、人気の絶頂期にオハイオ州に移住してTVから姿を消した彼が、再び舞台に立つようになったトランプ政権下では際立っていた。言うまでもなく、トランプ政権下での争点の中心はレイシズムだったからである。特にトランプの大統領選での敗北が決まった直後11月6日の「SaturdayNight Live(SNL)」には多くの人が、心を震わせたはずだ(彼はこのSNLのホストで今年のエミー賞を受賞している)。シャペルは、前半でBLMをネタにし(「黒人だからって理由で優しくしても、やつらには本当にその価値はないぜ」等)、またトランプのことを散々ギャグにしてふざけた(「あんな楽観的なやつはいない」)後に、選挙で敗北した陣営の気持ちを思うように観者に呼びかけた。トランプを支持した貧困層の白人は、米国史上、いまだかつてないほど自分たちの生への敬意が下落していると感じていることを想起するようにとシャペルは述べた。そして、憎み合うのではなく、自分の憎む気持ちと戦ってくれと訴えた。リベラルが勝利に熱狂する夜に、敗者への共感(empathy)を持つように促したのである。

 

 

それはある意味で「崇高」とさえ言えるスタンダップだったと思う。私たちがどうしようもなく差別しあう性を持って生きていることを残酷なまでに示したうえで、共感(empathy)を促す彼の姿勢は、今回の「Closer」でも基本的に変わってはいない。しかし、残念ながら「Closer」のパンチラインについては、パーフェクトに機能しているとは言い難いだろう。その理由は大きく2つあると筆者は考えている。ひとつは、多くの批評やSNS上でのコメントがすでに示しているように、「LGBTQコミュニティ」と「黒人」といったシャペルのマイノリティの区分があまりにも雑で、その両者に跨る人たちへの理解など、細かい配慮に欠けている点だ。区分自体が現状を捉えていないために、彼のパンチラインも的外れになっている。

 

もうひとつは、シャペルが大金持ち、そして業界の権威になってしまったがゆえに、ストーリーを最終的にレイシズムの図式に落とし込んでも、彼が、もはやどう足掻いても「弱者」にはなりえないことに尽きる。ダフネがいみじくも言っていたように彼自身に「見下す」気が一切なかったとしても、圧倒的「強者」である彼の戦いはフェアファイトにはならずパンチングダウンになってしまうのだ。彼ともあろう人が、そのことを十分に自覚できていないことに失望した人は多かったと思う。アメリカのジャーナリズムでは「年取ったコメディアン」の典型という評価も多く見られた

 

ともに笑えるその時まで

 

それでもなお、彼を支持し続ける批評家たちとともに、筆者がシャペルに期待するのは、私たちの善悪の判断を成り立たせる複数のレイヤーや枠組み=フレームにスポットライトを当てる彼の技術が、いまだにほかのコメディアンの追随を許さないほど巧みだからだと思う。彼は差別されていると思っている人がじつは差別していること、その逆のパターンを容赦なく暴き出す。実際、私たちは誰一人イノセントではないはずだ。彼の作品はこのどうしようもない事実に笑いとともに立ち返らせてくれる。だからこそ、個々人の経験が多様化し、それゆえに立場やグループも収集不可能なほどに多様化し、幾重にも階層化してしまったこの時代状況のなかで、「ひどい時代もあったよね」と多種多様なマイノリティが「ともに笑える時代」を描けるのは、やはり彼のようにどこまでもフェアファイトを目指す(今回は成功しなかったが)ファイターであるはずだと期待しているのだと思う。

 

「Closer」のなかで、シャペルはテキサス州の黒人たちの奴隷解放記念日「ジューンティーンス(June 19th)」について語っている。黒人奴隷が解放されているのにそれに気づかず、やっと解放されていることに気づいたことを記念するこの記念日は、非常に興味深いとシャペルは語る。そして続けて、サウスキャロライナで奴隷であった黒人男性が、解放された時、農園経営で成功した結果、今度は多くの黒人を奴隷にして酷使したというエピソードを続けて語っている。この悲劇は、解放奴隷だった黒人男性が、ただ単に周囲の成功者(=白人の農園主)の真似をした点にあるとシャペルは解説する。この小話はDaBabyについての解説であったかもしれないし、「Closer」で結果的にFOXニュースが喜ぶような発言をしたシャペル自身にもどこか当てはまるように見えて、考えさせられる。シャペルが、奴隷を酷使した解放奴隷のような悲しきビリオネアにならないことを願いつつ、次回作を待ちたい。


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2021年10月17日追記

その後、次々に明らかになってきた事実をふまえ、追記したい。この間、NetflixのCEOテッド・サランドスが、「Closer」への社内からの批判に応えるかたちで、この作品を擁護しているメールが流出したというニュースやこの「Closer」に明確に批判的なtweetをした社員が、幹部だけによる会議に無断で出席したことから停職処分になった(すでに復職している)というニュースが発信された。
加えて14日には、「ブルームバーグ」が、先に触れた公的に批判的なtweetをした社員以外にも、「Closer」に異を唱える社員は存在し、番組のためにシャペルに支払われた200万ドル以上のギャラや実際の収益や利益率など、多くの情報が今回漏洩していることを報じている。きわめつけは、昨日報じられた記事で、これに関しては当事者が安全のために名前を伏せているなど不明瞭な点は多いのだが、「Closer」を放映していることに異を唱えるウォークアウトを企画していたトランスジェンダーのNetflix従業員が、情報漏洩の嫌疑により解雇されたというものである。もしこのことが事実だとしたら、もはやサランドスが社員に語ったとされる「私たちは、スクリーン上のコンテンツが現実の害に直結しないという強い信念を持っています(we have a strong belief that content on screen doesn’t directlytranslate to real-world harm)」とは程遠い、有害かつ許し難い状況になっているのは間違いがない。

シャペルもアクターのひとつとなり、リベラリズムを謳いながら、結果としてリベラル同士の分断を仕掛け、炎上商法をしている状況は悲劇的であるし、しかも本当に気味が悪い。かつてアーティストは、権力者に応じているように見えて出し抜くというトリックスターを演じることもあったが、今回のシャペルは単にこの商法の一部になってしまっているように見える。同時に、この巨大ストリーミング産業がからむきわめて現代的な状況の原因を考える場合、特定の悪者が悪意という単純化では済まされない構造的な問題も感じさせる。引き続きこの問題を注視し続け、考察を続けていきたい。


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2021年10月21日追記

10月19日に、TwitterでNetflix社を批判し一時的に停職処分になった同社のTerra Fieldが自身の考えを文章として公表した。自身もトランス・ジェンダーである彼女のシャペルに関する見解は、本記事の立場と非常に近いので、多少自己弁護的であるがここに一部翻訳したい。

「先週には、私が「シャペルをキャンセルしようとしている」と非難する意見や記事がいくつも存在しました。私のツイッターのスレッドを見ていただければ、私が批判しているのは、本当はシャペルに対するものではないことがわかると思います。2005年の『The Chappelle Show』(デイブ〔=シャペル〕がまだパンチングダウンではなくパンチングアップする方法を知っていた頃)は大好きでしたし、『8:46』はパワフルで(欠点はあるものの、そうでないものはないでしょう)、ここ数年の彼の作品の中で最高のものだと思いました。

デイブはこの問題の原因ではありませんし、今までもそうではありませんでした。彼はこうした問題の一つの症状なのです。デイブが自分の発言内容を信じ、平気でそうしたことを発言できるのは、私たちが生きている文化、つまりトランスの人々を疎外し、切り捨てる文化の結果です。彼は非常に現実的な方法でその文化に貢献していますが、少なくとも彼はその間、LGBTQ+アライシップ賞をいくつ獲得したかを自慢するようなことはしていません。」

「ワシントン・ポスト」はこの文章を引用し、Fieldが問題にしているのは、シャペル自身ではなく、一貫して富裕な白人ヘテロ男性が支配するNetflixなのだと論じている。現地時間21日にはNetflixの有志の社員と市民たちによるウォークアウトが開催された。

非常に関心させられるのは、このプロテストにおいては、いわゆるシャペルの「キャンセル」ではなく、Netflixにより多くのトランスの人々を雇用し、またトランスのクリエイターを起用し、彼らの視点に基づくコンテンツ作りが求められている点である。この考え抜かれたインクルーシヴな提案に深い敬意を感じずにはいられない。

★1──ちなみにこのショーでシャペルは、彼を批判する人たちが頻繁に用いる「My people」という言い回しを茶化しており、こうした『出エジプト記』の「我が民」に倣った大仰な言い方自体をナンセンスなものとしてあえて引用している。

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2021/10/11
執筆者 |
elabo編集部
写真 | Ajay Suresh, CC BY 2.0
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