1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
極東の島国で、毎日ブラック・ミュージックばかり聴いている。昨年の12月には敬愛しているアーティストたちが次々に作品や作品予告を公開してくれたおかげで、長引くコロナ禍の不穏な空気のなかでも正気を保つことができた。幸運なことに現在も、時代の導き手と呼ぶべきアーティストは確実に存在する。例えばラッパーのタイラー・ザ・クリエイターは、自身のファッション・ブランド、ゴルフ・ラ・フルールから発売されたジェンダーレスなフレグランスに寄せられた批判について以下のように語った。
センシティブな話題についても臆せず繰り出されるタイラーのユーモアは、多様性を本当に実現したいなら必ずや必要になる懐の深さを思い起こさせてくれる。思わず笑顔にならずにはいられないこのインタビュー公開後のクリスマスには、タイラーと同じOdd Futureに所属していたカリスマ、フランク・オーシャンが、ピアノの演奏をバックにした優しく内省的なフリースタイルをドロップし、音楽ファンを狂喜させた。
そして12月26日には、ラッパーであると同時に多彩なクリエイターであるドナルド・グローヴァーが手がけるTV番組「アトランタ」シーズン3のティザー映像も流れた。「アトランタ」シーズン3では、有名大学を中退しうだつが上がらない主人公アーンと彼の従兄弟でありアトランタの地元スターであるラッパー・Paper Boiと仲間たちが、欧州ツアーに出るという。白人至上主義社会とその中でサバイブする黒人コミュニティがはらむ不条理を、ハイコンテクストなユーモアとシュールレアルな映像で描き続けてきたこのシリーズが、「ヨーロッパ」という文脈をどのように扱うのか、期待が高まる。
1983年生まれのドナルド・グローヴァー、1992年生まれのタイラー・ザ・クリエイター、1987年生まれのフランク・オーシャン。近年、最も先鋭的にカルチャーをリードしている彼らは、言うまでもなくラッパーであり、ファッションやデザイン、ドラマの制作にも関わる、極めて多才なアーティストである。同時に彼らは、従来のギャングスタラップが掲げる黒人男性像からかけ離れた繊細さ、ポップさ、批評性、芸術性を実践している点で共通している。セクシュアリティの揺らぎや流動性についても、フランクはリリックスによって、タイラーはウィッグなどのファッションやプロダクトによってポップに表現し続け、同性愛嫌悪が強いとされる黒人社会に風穴を空けてきた。
こうした彼らに私は、白人至上主義の社会からも、マッチョな黒人社会の喧騒からも距離を置きながら「やれやれ」と溜息をついて本を読む少年少女、音楽を聴く少年少女、アニメを観る少年少女の姿を見出す。その一点において、地政学的にいかに離れていようと、私たちは同じなのだ。彼らもまた、明らかな不公正がなかなか正されない社会のなかで生き抜く術を、カルチャーに求める「nerd(ナード)」なのである。
「nerd(ナード)」とは、日本で言うところの「オタク」だと説明されることが多い。日米の文化に精通した人のなかでもその意味内容は全く同じだと言う人もいれば、少し違うという人もいる。自身が調査するなかで感じたのは、「ナード」と「オタク」は、指示する人物像や集団は「特定のジャンルのカルチャーをマニアックに消費する人たち」と言う意味でほぼ同一なのだが、そのような集団と社会との関係は両者でずいぶん異なっているということだった。米国の「ナード」は年々自分たちのアイデンティティをポジティブに意味づけるようになり、実際に社会的な地位を上昇させ、結果としてドナルド・グローヴァーやフランク・オーシャンに代表されるように最も「イケてる」人たちになりつつある。ネットを検索するとnerd(ナード)とgeekを分けて前者を非社交的、後者を社交的だとする、あるいは前者を文系、後者を理系と分けるなどの俗流の説明もあるが、少なくともバラク・オバマが自らナードであることを自認しているほどにナードの意味がポジティブに変容しているのは間違いなさそうだ。以下は2016年のオバマ自身の言葉である。
文学評論家・コロラド大学の英文学教授のアダム・ブラッドリーによれば、「ナード」の歴史は以下のように始まる。最初期のいわば「ナード 1.0」は、1980年代の映画に登場する瓶底メガネの白人男性で、勉強熱心でぎこちない(awkward)、しばしばいじめられているキャラクターで、『ナーズの復讐』(1984年)のルイス・スコルニックや『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)のクリスピン・グローバー演じるジョージ・マクフライがその典型である。アメリカのカルチャーでは、その白人男性ナードの亜種としてアジアン・ナードが登場する。『すてきな片想い(Sixteen candles)』(1984)のロンなどが代表例なのだそうだが、秀才でブッキッシュという、典型的なモデル・マイノリティーであり、武闘派のヒーローのコインの裏側のようなキャラクターになっている。ブラッドリーいわく、こうしたキャラクター設定は、今日まで東アジアと南アジアの俳優が直面するタイプキャスティングに影響を与えているのだそうだ。
以上のようなナードは「イケてない」という評価が、ここ20年で劇的に変化した。かつてナードは、頭脳明晰な社会からの落伍者(outcast)に対する呼び名だったが、今ではある分野の知識に深い愛着を抱く人なら誰でもナードだと主張するようになったとブラッドリーは述べる。このいわば「ナード 2.0」にはアニメやアメコミファンだけではなく、最先端のファッションを追いかけるスニーカーヘッズや大麻の鑑定家まで含まれる。
以上のように社会的な地位を高めてきた「ナード」だが、その原型が白人男性である「ナード」に黒人が「なる」ことには、必然的に困難が伴われてきた。コミコンで黒人のコスプレイヤーが、「そのキャラクターは黒人であってはならない」と有力者に叱られることもあれば、コミックショップで白人の店主に尾行されることもあるそうだ。昨年10月に、セーラームーンや『新世紀エヴァンゲリオン』のアスカ・ラングレイのコスプレをSNSで公開していた黒人の女子大生が「文化盗用」だと非難されるという事件があったが、これも同様のナード界での人種差別がベースとなった出来事だろう。黒人のコスプレーヤーを擁護する動画を発信した日本人モデル・紅林大空氏も、サブカルチャー内でのレイシズムについて言及している。
このような外圧に加え、ファンタジーやSF などの黒人ファンは、黒人の友人や家族から、「白人を演じている」と揶揄されることもあるという。ファンタジーやSFなどのジャンルは「白人のもの」だという前提に由来するこの問題は、ドナルド・グローヴァーの『アトランタ』シーズン1エピソード7「B.A.N」でも、『ゲーム・オブ・スローンズ』を愛する黒人男性が人種転換しようとしているという、高度に批評的なコメディとしてドラマタイズされていた★1。
なぜ黒人のナードは、コミュニティーの内からも外からも緊張を強いられるのだろうか。ブラッドリーは以下のように説明している。ブラック・ナードはアメリカにおける一枚岩の「黒人(Black)」像を混乱させる。アメリカで歴史的にステレオタイプ化された「黒人(Black)」とは「無知で、感情的で、性化され、クールな(ignorant and emotional or sexualized and cool)」存在である。「クール」は一見ポジティブな属性だが、ジョーダン・ピールが映画『ゲット・アウト』(2017年)で描いたような、抑圧する側の白人が黒人に対して抱く嫉妬まじりの羨望に基づく評価であり、また抑圧の代償にほかならない★2。こうしたステレオタイプを抱く者に対し「賢く、頭脳派で、セクシーではないし、断じていわゆるクールでもないsmart and cerebral, unsexy and decidedly uncool」ブラック・ナードは、認知的不協和をもたらす。要するに「それは私が期待する『黒人』ではない」という反応を引き出すことになのだ。かくしてブラック・ナードは人種差別を維持しようとする外部からも、また人種差別に対して団結しようとするコミュニティー内部からも忌避されることになる。けれども、ブラッドリーが明言するように、2020年代になった今、Blackを単一集団として捉えることで得をする黒人はもはや存在しないだろう。言うまでもなく一面的な捉え方は複雑な複合体にほかならないし個人を抑圧する上、Blackのステレオタイプに囚われることは、実際には大勢存在するブラック・ナードの存在を不可視化しかねない。
「ブラック・ナード1.0」はシットコム「Family Matters」(1989年)で演じたスティーブ・アーケルなのだそうだが、その後ブラック・ナードは現実の社会でも数を増やし、さらにインターネットの普及に伴い様々なWebサイトやコミュニティを拠点に認知と連帯を広げていった。
先に挙げたオバマのみならず、フェア・ファイトで有名なアクティビスト、ステイシー・エイブラムも自他ともに認めるナードで、スタートレック・ファン(=Trekkie)である。ほかにも冒頭に挙げたラッパーたち以外にも、文字通り「N.E.R.D」というグループを結成したファレル・ウィリアムス、アニメ好きで知られるフライング・ロータス、女性でも「Nerd Girl」を歌ったジャネル・モネエやジャパニーズ・アニメ・ファンのミーガン・ジー・スタリオンなど、SFやアニメ好きを自称するブラック・アーティストはこの場で列挙しきれないくらい多数存在する。
2010年代に有色人種のナード同士が連帯し、互いを差別的な嫌がらせから守るために用いていた「Blerd」という呼称があるが、現在の20代以下の若者たちはこの名称を好まず、自分たちを端的に「ナード」と自認する方が自然だと考えるそうだ。黒人のナードはそれほど一般的なものとなったのである。
上記のようにブラック・ナードが市民権を得る過程で、マーベル・シネマティック・ユニバースの映画『ブラック・パンサー』(2018年)は決定的な意味を持っていた。この記念碑的な作品はまさしくブラック・ナードの成功者、ライアン・クーグラー(1986年〜)によって監督され、出演している俳優はもちろんのこと、美術や衣装や制作に至るまでほとんどのスタッフがアフリカ系黒人のアメリカ人によって担われたことで知られている。多くのブラック・ナードにとって、映画『ブラック・パンサー』の成功は、自分の情熱に正統性を与えられたことを意味するのと同時に、もはや白人のヒーローに自分を投影する必要のない完璧な英雄譚が与えられた瞬間でもあった。
主演を務めた故チャドウィック・ボーズマンが様々な番組で解説をしているように、一度も植民地化されていない架空の国、ワカンダは「あるべきだった現実」、到達されるべき理想として、人々が話す言葉、振る舞いに至るまで周到に作り込まれている。映画内で話されている英語でさえ、アメリカンイングリッシュでもクィーンズイングリッシュでもなく、ネルソン・マンデラの話す英語、つまり南アフリカのコサ訛りの英語をベースにチャドウィック自身が作り出したものだった。
『ブラック・パンサー』は、自分たちの真の故郷が超近代国家としてアフリカに存在しているという理想を語った典型的な「アフロ・フューチャリズム」の作品でもある。狭義には1990年代に生まれた「アフロ・フューチャリズム」は元々サイエンス・フィクションが描く未來の世界に有色人種が存在しないという認識から始まったそうだが、この認識は未來に有色人種がいないということは「有色人種に何かが起こったに違いない」という恐怖と表裏一体なのだそうだ。こうした恐怖から、アフリカ系アメリカ人たちは、自分たちが生存している理想の未来を思い描くようになったが、そのフィクションの中には過去の虐殺などの悲劇の記憶が必ず反映されているのだと言う。自分たちのヒーローが、過去の忌まわしい暴力と「あるべき未来」、可能世界の中で戦い、勝利するのである。アフロ・フューチャリズムについては機会を改めて論じたいが、いずれにしても、映画『ブラック・パンサー』が、アクティビズムに「あるべき未来」像を提供してきたアフロ・フューチャリズムの系譜において、近年最大のエポックメイクだったのは間違いがない。
『Black Nerd Problem』(2020年)の著者ウィリアム・エヴァンズは、その最終章で、チャドウィックのワカンダ・サルートが黒人コミュニティに与えた意味について記している。ワカンダ・サルートとは、『ブラック・パンサー』を観た者にはお馴染みの、手を胸の前で組む挨拶、敬礼である(「Wakanda Forever!」)。生前のチャドウィックは、あらゆる場面でこのワカンダ・サルートをしていた。トーク番組の登場シーン、受賞式、そしてNBAのオールスター戦でビクター・オラディポにブラック・パンサーマスクを渡した時も、彼はワカンダ・サルートを欠かさなかった。
『ブラック・パンサー』公開から数年経っても繰り返し求められるこのジェスチャーに、チャドウィックがうんざりしているのではないかという噂も流れていたようだ。しかし、2019年にラジオ番組「The Breakfast Club」に出演した際に、彼は「僕は頼まれてもタップダンスはしないけど、サルートには必ず返すよ」と笑いながら話している。エヴァンズは、チャドウィックが、かつて黒人のステレオタイプなダンスとみなされたタップダンスと対比しながらワカンダ・サルートについて語った点に注目し、チャドウィックはこのサルートが商品化(コモディティ化)されることに抵抗していたのではないかと解釈している。このジェスチャーは、当初はもちろん単なる映画の宣伝だったはずだ。しかし、チャドウィックが文字通り同胞同士の挨拶として流通させたことで、現実社会で黒人たちが連帯を示す言語になったのだ。エヴァンズは、彼自身が自動車修理所で白人スタッフに不当に後回しにされた際に、その不正の目撃証人になってくれた黒人スタッフが微笑んでワカンダ・サルートを送ってきたエピソードを披露し、アメリカの黒人たちにとってこのサルートは確実に連帯を示す言語として機能していると記している。
ブラック・ナード・カルチャーについて知るほどに胸が熱くなるのは、彼らが、自分たちが被る過酷な現実から目を逸らさず、その現実を変えていく希望を真摯にフィクションに託し、実際にファンタジーを介して現実に影響を及ぼしているからだ。それは実際に何かを作っているクリエイターだけではなく、例えば、エヴァンズにワカンダ・サルートを示した自動車修理場の店員のようにファンタジーの美しさを現実に根付かせていくファンも同様である。ブラック・ナードたちの虚構への愛は、あくまでも現実との緊張関係のなかにあるように見える。だからだろう、彼らが書くテキストの多くには、フィクションを愛好することは「現実逃避なのか?」という自問自答が頻繁に登場する。先に言及した『Black Nerd Problem』の著者エヴァンズも、ブラック・ナード第一世代の父親に対して同じ問いかけをしていた。「僕たちは現実逃避の手段としてファンタジーやフィクションを愛しているのかな?」その問いかけに対して、エヴァンズの父は以下のように答えたそうだ。
「逃避ではないよ。それは希望なんだ。ファンタジーの物語のなかでは、善人が勝ち、人生に価値がある。それは何かから逃げることについてではない。お前が逃れられないものに希望を挿入することなんだ。」★3
ブラック・ナード・カルチャーについて概観した上で再びナードとオタクの違いについて考えてみると、日本の文化と社会の関係が一筋縄ではないことに改めて気づかされる。米国のナードと日本のオタクはやはり何かが違うし、その違いは明らかに現実社会との対峙の仕方に関わっている。端的に言って、日本のオタク文化は、アメリカのブラック・ナード・カルチャーのような仕方で自国のアクティビズムと結びついてはいない。しかし、だからと言って単なる現実逃避だとも言い切れないのが日本のオタク文化の難しさである。オタク文化と社会正義について正確に整理することは現時点では残念ながらできないが、少なくとも、4月に公刊されるジョルダン・カルーンの『Piccolo is Black』(Lit Riot Press)も示すように、日本のアニメーションがブラック・ナード・カルチャーの主要なインスピレーションの源であり続けていることもまた事実なのだ。
カルチャーが現実社会の社会正義とどのように関わっているのかという問題の複雑さは、先述のエヴァンズと父親のエピソードからも窺い知ることができる。エヴァンズの父親はトールキンの『指輪物語』をはじめとするファンタジー小説の熱心なファンなのだそうだ。ベトナム戦争には行かなかったエヴァンズの父だが、父の兄は従軍しており、戦争についての経験を全く持たないわけではないと言う。しかも1950年代生まれのアフリカ系アメリカ人であるエヴァンズの父は、間違いなく黒人に対する様々な暴力を目撃してきたはずなのだが、現実の暴力について全く語ろうとしないのだそうだ。代わりにこの父子は、小説や映画の戦闘シーンについて会話を続けてきた。エヴァンズは、自分たち親子にとってこのナードな会話が、アメリカで日常的に生じる黒人に対する暴力について語り合うことの代替だったと考えている。
「どの映画の戦闘シーンが最高かを議論する時、私たちは、父が30年以上前に見たように、黒人が無差別に殺されるのを私〔エヴァンズ〕が見るとは思わなかった、ということを話しているのだ★4。」
エヴァンズ親子は自分たちのコミュニティが被るリアルな暴力について、ファンタジーを介して語り合ってきた。言うまでもなくそれは逃避ではなく、彼らが過酷な現実を見つめ続けるために不可欠な方法だったとさえ言えるだろう。この父子のエピソードは、カルチャーのなかで繰り広げられている現実との戦いとは、必ずしもわかりやすいものではないことを教えてくれる。
ブラック・ナード・カルチャーのなかで、アフリカ系アメリカ人は、白人至上主義社会によって押し付けられたステレオタイプを退け、頭脳明晰でいる自由、性的でない自由、ぎこちなくいる自由を獲得し、個人の多様な主体化を実現していった。日本の一見単なる消費財に過ぎない文化のなかでも、未だ言葉にはなっていない様々な戦いが密かに展開しているのかもしれない。そう信じたい。
★1――脚本も監督もドナルド・グロヴァー自身によるもので、彼はこの作品でエミー賞のコメディ監督賞を受賞している。
★2――白人が黒人に投影する「クール」という価値については大和田俊之『アメリカ音楽史:ミンストレル・ショウ ブルースからヒップホップまで』(2011、講談社学術メチエ)が詳しい。
★3――Evans, William; Holmon, Omar. Black Nerd Problems:Essays (p.268). Gallery Books. Kindle 版.
★4――Evans, William; Holmon, Omar. Black Nerd Problems:Essays (p.268). Gallery Books. Kindle 版.
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
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