22歳。食事と趣味に使うお金がいくらあっても足りない。
週刊少年ジャンプで連載中の『呪術廻戦』(芥見下々、2018年-)初の劇場版『呪術廻戦0』が、2021年12月24日に全国で公開された。公開初日の舞台挨拶で「興行収入100億円突破は確実」と言われた本作は、2022年1月4日現在、既に431万人を動員し、58億円の興行収入を記録している。
この映画は、『呪術廻戦』本編の連載開始(2018年)前に、全4話の月刊連載としてジャンプGIGAにて掲載(2017年)された『東京都立呪術高等専門学校』を映画化したものだ。芥見初の連載作品である 『東京都立呪術高等専門学校』は、ジャンプGIGAで好評を博し、それをきっかけに本編の連載が決定した、いわば『呪術廻戦』の原点にあたる。本作は、『呪術廻戦』本編の1年前の出来事を描いた前日譚として、本編連載後に単行本で「0巻」として発行された。
『呪術廻戦』は、人の負の感情から生まれる化け物「呪霊」が存在する世界で、呪力という特殊な力を使いこなして呪いを祓う「呪術師」たちが奮闘する物語だ。『東京都立呪術高等専門学校』(以下、0巻)は、内気な少年「乙骨憂太(おっこつ・ゆうた)」が、彼に取り憑いている呪霊「里香」の呪いを解くべく闘う、「愛と呪いの物語」だ。幼い頃に乙骨と結婚の約束を交わしていた里香は、乙骨の目の前で事故死した日を境に、醜い「呪霊」に姿を変えて乙骨に取り憑き、彼を害するものを傷つけるようになってしまった。自らの呪いにふさぎ込んでいた彼が、その呪いを祓うすべを学ぶため、高専に入学するところから物語が展開していく。
『呪術廻戦0』の主人公である乙骨は、気弱で温厚な少年である。しかし、一見した弱さと裏腹に、里香に愛を伝え、身も心も捧げると誓うような大胆さも持ち合わせている。本作で乙骨を演じた声優の緒方恵美は、乙骨の役作りに悩み「どうしても乙骨の素地が見えなかった」と述べている。特に夏油に「女誑し」と評価されるほどの言動が出て来る素養が彼のどこにあるのか悩んだのだそうだ。
緒方を悩ませた乙骨とは、少年漫画における主人公像を踏まえた場合、どのように位置づけることができるのだろうか。週刊少年ジャンプ(以下WJ)の主人公は、時代に合わせてその姿を変えてきた。WJの発行部数が歴代最高記録に達したのは1994年だそうだが、その最盛期を挟む時期、つまり『北斗の拳』連載開始の1983年から『スラムダンク』連載終了の1996年周辺の「黄金時代」の十数年間は、WJ作品のキャッチフレーズ「友情・努力・勝利」の三要素を強調する作品が多く、主人公像にもその理念が反映されていたと言われる。このWJに典型的な主人公像が変化するのが1990年代だ。批評家の渡邉大輔は、映画ライターの杉本穂高との対談の中で、この時期、平成不況の影響から「もののけ姫」(1997年)のアシタカ、「エヴァンゲリオン」(1995年)の碇シンジなど、抑圧を受けた主人公像にリアリティが出てきたと述べている。渡邉が指摘するような流れが世間的に認知される一方で、WJでは『ONE PIECE』(尾田栄一郎、1997年‐)のルフィ、『NARUTO -ナルト-』(岸本斉史、1999‐2014年)のうずまきナルトなど、相変わらず「友情・努力・勝利」の要素を色濃く残した主人公たちが引き続き活躍していた。
2010年代の後半になり、『呪術廻戦』と同時期にWJに登場した主人公としては、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、2016‐2020年)の竈門炭治郎が挙げられるが、渡邉は、炭治郎が極めて「Z世代的なキャラクター」だと述べている。杉本もまた、家族への愛を何よりも大切にする炭治郎という主人公像から、「冒険よりも世の中の縮図や人間の業の深さを見つめ、目の前のミニマムな関係を守ること」が読者にとって「意義がある」ということなのではないかと分析している。
加えて、炭治郎をはじめとする2010年後半以降の主人公たちは、「夢を語らない」主人公であると渡邊、杉本は指摘する。炭治郎も、『チェンソーマン』(藤本タツキ、2018‐2020年)のデンジも、ルフィにとっての「海賊王」やナルトにとっての「火影」にあたるような明確な夢を持たない。貧困層出身のデンジに至っては、夢は「普通の生活を送ること」である。『チェンソーマン』の担当編集者である林士平は、デンジが貧困という世界的なテーマを背負った主人公であり、読者にとって応援しやすいという点がヒットの一因だったのではないかと述べている。いわば夢や冒険を求めず、平穏な生活や身近な関係を回復しようとする主人公がよりリアルなものとして受け入れられているのが2010年以降の傾向だと言えるだろう。
乙骨もまた、夢を語らず、ミニマムな関係に関心を寄せる2010年以降に典型的な主人公の一人だと言えるだろう。彼は、物語の冒頭で「死のうとしました」、「もう誰も傷つけたくありません。だからもう外には出ません」とふさぎ込んでいたものの、「一人は寂しいよ」という五条悟(のちの乙骨の担任教師)の言葉に動かされて高専への入学を決意する。里香以外の呪霊についても何も知らないまま、同級生の禪院真希(ぜんいん・まき)とともに呪霊を祓う実習に駆り出された乙骨は、巨大な呪霊に丸飲みされ、早々に窮地に立たされる。被害者が目の前で苦しみ、真希も呪いにあてられて倒れてしまうという状況に置かれても、なかなか戦う覚悟を決められない乙骨に対して、真希は「オマエマジで何しにきたんだ。呪術高専によ」と迫る。この追い詰められた状況で乙骨が出した答えは、「誰かと関わりたい。誰かに必要とされて、生きてていいって自信がほしいんだ」というものだった。この場面で初めて里香を自分自身で呼び出した乙骨は、里香の力を借りて窮状を脱し、彼女の呪いを解きたいという思いを強く持つようになる。
このエピソードに象徴されるように、乙骨の力の源泉は身近な人への「愛」や「愛を求める感情」だ。例えば彼は高専の同級生たちを侮辱され、傷つけられたことで激昂し、敵を圧倒する。また戦いの最中、里香に「愛してるよ」と告げ、自分の全てを里香に捧げると約束したことで彼女の力をさらに引き出していく。
本作で乙骨と対峙する敵・呪詛師(呪殺を行う呪術師)夏油傑(げとう・すぐる)は、身近な関係のなかで愛し愛される関係に依存する乙骨の前に、「非術師の皆殺し」という大義を掲げた悪役として立ちはだかる。
夏油はかつて、世界に絶望して呪詛師になった。当初は「弱きを助け強きを挫く」「呪術は非術者を守るためにある」という信念を持ち呪術師として高専に身を置いていた。しかし、任務の失敗による護衛対象の死亡、単独任務の増加、仲間の死などの出来事のなかで、夏油は次第に呪術師としての生き方・信念に疑念を抱くようになっていく。そして、任務先で呪力を持った少女が非術師から迫害を受けているのを目撃したことで、100人以上の民間人を虐殺し呪詛師へと転身した。
乙骨と夏油は、その戦いの終盤にそれぞれが抱える価値観を端的に表明し合う。
この二人の人物に象徴されるミクロな関係としての「愛」と、世界を変えようとするマクロな「大義」の対立は『呪術廻戦0』の基底をなすテーマだと言えるだろう。
呪術師としても、呪詛師としても「大義」を必要とする夏油は、言い換えれば「意味」なしでは生きられない人間である。彼は、自分が力を使う「意味」を一貫した論理によって根拠づけ、そこに生まれる矛盾を許すことができなかった。夏油が高専在籍時代に思い描いていた弱者救済の理念は、一つの美学であり理想だったわけだが、呪術師に守られていることを知りもせず安穏と暮らす非術師に対し、呪術師だけが体と心をすり減らしながら暗躍している現実に彼は耐えられなくなった。
意味にがんじがらめになる夏油の隣で、親友の五条悟は「意味」そのものを疑い、時に否定する役割を無意識のうちに担っていた。高専在籍時代、夏油が五条に「呪術(ちから)に理由とか責任を乗っけんのはさ、それこそ弱者がやることだろ」と反論され大喧嘩をする場面がある。五条の指摘通り、夏油は意味を問わずにはいられないという、極めて人間らしい「弱さ」を持ち続けた人物である。五条が「意味ね、それ本当に必要か?」と夏油に問い、夏油は「大事なことだ。特に術師にはな」と譲らない印象的な描写もある。
『呪術廻戦公式ファンブック』で、作者の芥見は「五条は当時、夏油の判断を善悪の指針にしていた節があります」と述べているが、五条もまた夏油の弱さを補完していたように見える。五条が呪術師として成長し「最強」の存在となり、単独で任務をこなすようになったのと同時期に夏油が矛盾や非術師への嫌悪感に苦しみ始めるのも、意味を求めずにはいられない夏油の弱さ、脆さに五条以外の誰も気づかず、サポートすることができなかったからだろう。結果、彼は離反し、呪詛師として高専を襲撃するが、乙骨の攻撃により致命傷を負い、かつての親友・五条の手によって命を失うことになる。
『呪術廻戦』は、物語の要所に具体的な年が設定されており、キャラクターの生年も一部明かされている。0巻の高専襲撃は2017年の出来事であることから、2001年生まれの乙骨は筆者と同時代を生きるZ世代の若者であることがわかる。芥見が世代をどの程度意識しているかはわからないが、Z世代という視点で改めて考えてみると、幾つかの典型的な特徴が浮かび上がってくるのが面白い。
まず指摘したいのは、乙骨憂太の現実に対する受動性である。乙骨以外にも、同級生の真希や本編主人公の虎杖悠仁など、『呪術廻戦』の主要登場人物たちは極めて不幸な境遇に置かれていることが多いのだが、彼らは自らの不遇に対して葛藤もせず、怒りもしない。虎杖は、本編1巻で特級呪霊「両面宿儺」の指を取り込んでしまったことによる「死刑」という運命を受け入れた上で、祖父の遺言に従って呪術師として人を助けながら執行猶予期間を過ごしている。乙骨も、里香が他者を傷つけることに対して「ごめんなさい」と無力に謝るばかりで、「なんで自分がこんな目に」といった恨み言をこぼすこともない。乙骨も真希も虎杖も、過酷な現実は現実としてひとまず受け入れて、日常においてあくまでも身近な人間関係のために行動していくというリアリストなのである。こうした若者たちの現実主義的な姿勢は、意味を求め、理想を掲げ、苦しみの末に世界の在り方を真っ向から拒絶し変えようとする年長者、夏油との対比において際立っている。
乙骨は最終的に里香に呪われるという不幸な状況を受け入れた上で「里香ちゃんの呪いを解きます」という、またもやミニマムな人間関係に終始する目的を掲げ、その目的のために戦い、願いを成就する。身近な者との愛情関係に終始する乙骨は、矛盾を抱えて生きることに躊躇がない主人公だ。自己肯定のために人を助け、そのためならかつて周囲の人間を傷つけた里香の力をも借りる。結局のところ、里香の呪霊化も乙骨自身のせいであることが明らかになるように、ある意味では乙骨の愛は相手を縛り、自分を縛る「呪い」にほかならないのだ。この呪いと同義の愛を土台に、彼は「生きていていい」と自己を肯定し、物語はエンディングを迎える。
乙骨と同世代のZ世代だからだろうか。私は、この乙骨の生き方に全面的に共感している。以前『鬼滅の刃』について考察した際にも触れた通り、自分自身の人生に関わることを自由に選択できることに対して、私は恐怖を感じる。経済的な安定や、家族や友人、恋人などから受ける愛といった、人間生活に必要とされるものを手に入れられないのではないかということへの不安は大きい。乙骨同様に、自分もまたミニマムな人間関係における縛りを渇望しているが、それが生まれた時から日本経済が斜陽であったことに由来しているのか、個人的な問題なのか、当事者としては判断しかねるというのが正直なところだ。しかし、『チェンソーマン』の「普通の生活」を夢見るデンジへの共感も前提にするならば、現在の若者には確かに、生活レベルの安定に対する強迫観念があるような気がする。
興味深いことに、声優の緒方恵美の発言に象徴されるように、夢でも冒険でもなく、ただ身近な愛情関係の縛りを切望する生き方は、上の世代からは相当意味不明な行動原理に見えるようだ。この年長者からの相対的な視点は、作中でも五条が乙骨に語る「愛ほど歪んだ呪いはないよ」と言う指摘に表れていたと思う。大義よりも身近な愛による縛りを求めることが正しいかどうかはわからない。しかし『呪術廻戦0』はとりあえずコロナ禍の2022年に大ヒット上映中だ。
22歳。食事と趣味に使うお金がいくらあっても足りない。