1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
被害者であることを正確に捉えることは難しい。誰もが様々な関係性のなかで被害者にも加害者にもなりうるし、ましてや今日のようにコロナ禍という状況下では、誰もがこの状況の被害者になっているように感じ得るだろう。他にも気候変動や貧富の差の拡大、一進一退でなかなか根本的に解決しない差別構造などが露呈している今、多くの人が過去の犠牲になっていると感じかねない。スタンフォード大学で比較文学を教えるエイドリアン・ドーブによれば、こうした被害者の意識を持っているのは、テック業界の億万長者たちも同様で、むしろ積極的に被害者であることを「演じている」という。
2022年2月7日、起業家であり投資家であるピーター・ティールがMeta(前Facebook)の取締役を退任することが発表された。54歳のティールは、10億ドル規模のテック企業をいくつも立ち上げ、支援することで大金持ちになった。彼はPayPalとデータ分析会社パランティールを共同設立し、Facebookの最初の外部投資家であり、LinkedInやYelpなどの大手テック企業の初期投資家でもあった。実は、ティールは2012年、Facebookの公開に伴い、保有株式のほとんどを売却し、Facebookの時価総額が約5,000億ドルになったとき、さらに残りのほぼ全てを売却していたそうだ。ホワイトハウスを襲った暴動への関与からインスタグラムの若者への悪影響まで、様々な道義的責任を問われているザッカーバーグからすれば、会社の建て直しのためにもシリコンバレーの嫌われ者になってしまったティールから離れたとも見えるし、ティールからすればもはや利益の望めない船から降りたようにも見え、真相はよくわからない。いずれにしても、このティールがMetaから全面的に退くという動きに対し、「ブルームバーグ」筆頭に様々なリベラル寄りのメディアは、ティールがトランプの再選に向け「極右の」政治活動に専念するという兆候を見出している。
幾つかのニュース配信を読む限り、「極右」という言葉は「親トランプ」を意味している。しかし、注意が必要なのは(不要の読者もいるだろうが)、ティールは別にトランプ自身に心酔しているわけではなく、穏健な保守主義ではないという意味で親トランピズムとみなされるということだ。2016年の大統領選時には、トランプこそ「偽りの文化戦争〔左派と右派のイデオロギー対立〕を超え、アポロ計画を実現していた時代の確かな楽観主義を取り戻せる候補者だと熱のこもった演説をしたティールだが、2018年の「ニューヨーク・タイムス」のインタビューではトランプを推薦したことは「ヒラリー・クリントンや共和党のゾンビよりはまだまし」と語っている。その後のコロナ禍ではトランプの対応に失望した結果、2020年の大統領選の際には支援も寄付も行わなかった。
「CNN ビジネス」が報じるように、ティールは、近年空白化している共和党への政治資金の大口の寄付者になることで、共和党に彼自身の信条であるテクノ・リバタリアニズム、つまり技術革新と個人の自由を至上のものとする思想を押し付ける最良の機会を得ようとしているように見える。ティールの政治への関与が注目されるのは、現実的なレベルで彼の資金力が今後のアメリカ合衆国の政局、より具体的には11月の中間選挙に影響を与えうるからだ。他方で、ティールを現代の興味深いフィクサー、思想家として見た場合、彼の政治へのコミットは彼自身の哲学と一見矛盾しているがゆえに注目に値する。リバタリアンとして政治による介入を嫌い、テクノロジーを政治から自由にすることを望んできたティールは、彼が師事した思想家ルネ・ジラールの理論から言っても、欲望と競争によって構成された政治にかかずらうべきではないだろう。過去の記事でも概説したが、他者を模倣し、競合せざるを得ない存在として人間を捉えたジラールからすると、狭義の「政治」は、競合のストレスを解消するために、繰り返し誰かを犠牲にするシステムの代表である。それでもなお政治に積極的に介入することを決意したのだとしたら、独占(monopoly)によって犠牲という暴力を繰り返すことを回避すべきだと考えるジラール主義者・ティールは、おそらく権力を独占する機会を現在の政局に見ていると推測される。
このようなティールの振る舞いに、被害者(victim)の意識を見出しているのが、冒頭に述べたように、エイドリアン・ドーブである。ドーブはドイツ出身の比較文学者で、スタンフォード大学でジェンダー・スタディの研究所の所長も務めている。政治と現代のカルチャーへの関心からポッドキャストを主催し、様々な文化批評も発表しているドーブは、2020年10月に『What TechCalls Thinking:An Inquiry into the Intellectual Bedrockof Silicon Valley(テックが思考と呼んでいるもの:シリコンバレーの知的基盤への探究)』(FSGOriginals)を上梓した。
本書の背景には、ドーブ自身が2008年以降スタンフォード大学でリベラルアーツを教える中で、実際にテックの業界に関わる教員やテック業界に憧れる学生との経験があるそうだ。言うまでもなく彼もテック業界に関わる人の全てに問題を見出しているわけではなく、技術系のCEOや投資家に正しいことをしている人がいることを認めている。しかし、ドーブによれば、そのような人たちはシリコンバレーのストーリーにならない。実際にメディアも相まってテック業界全体でプロパガンダ的に作られている物語は、この業界への非現実的な過大評価に繋がり、現にドーブの周囲の学生を混乱させることがあると言う。序文には以下のように書かれている。
「私は、ある種の考え方がハイテク産業の世界にどのように浸透しているかを示すだけでなく、ハイテク産業のヒーローやヴィランを求める報道陣に対して、この産業がどのように自らを表現しているか、つまり、究極的にはかなり地味な産業であるにもかかわらず華々しいストーリーを求めていることを示そうと思う。」(Daub, Adrian. What Tech Calls Thinking (FSG Originals x Logic)(p.7). Farrar, Straus and Giroux. Kindle 版.)
マクルーハンのメディア論の影響下で生まれた「プラットフォームを重視しコンテンツを軽視する傾向」、リバタリアンの理論的支柱とされるアイン・ランドの「天才神話」、シュンペーターの「創造的破壊」の曲解の結果生まれたイノベーションのための喪失の過大評価など、ドーブは、様々な過去の理論がテック業界のアジェンダに沿ってどのように再解釈されているかを論じている。本書の第5章ではジラールとティールの関係も取り上げられているが、第1章のドロップアウト(中退)神話や第7章の失敗の過大評価も、基本的には同じ問題を扱っている。それが先程から言及している被害者意識であり、これが著しい選民意識と表裏一体になっているのが特徴だとされている。
ドーブは、このテック業界の被害者意識の例として、イーロン・マスクがTwitterで救助隊員を「ペド野郎」と呼び、誤解されているのは自分だと主張した件やVICE(US版)が暴露したテックのエリートがクラブハウスでジャーナリズムの「キャンセルする」権力の大きさを訴えた件を挙げている。こうした数々の事例のなかでも、最も目立った例として挙げられているのがティールで、彼が2016年5月にメディア企業ゴーカーを崩壊させ、決して雇用に恵まれているとは言えない業界で、何百人もの人を失業させたと指摘している。ティールがゴーカーを破滅させたのは、当メディアが彼がゲイであることを明らかにしたからだと広く考えられていた。しかし、その正当化のために、彼は自分自身(そして、ゴーカーの自由奔放なスクープによってターゲットにされた他のシリコンバレーの大物たちを含む他のセレブたち)をゴーカーの「被害者(victim)」に仕立て上げ、同社が「人々をいじめている」と非難し、「反撃する価値があると思った」と述べたことにドーブは注意を促す。
ドーブがこの状況を疑問視するのは、言うまでもなく、これらの著しい被害者意識を持ったテックの巨人たちが、社会全体の中では被害者とは程遠い圧倒的な強者だからだ。要するに、こうした被害者=英雄言説は現実の権力構造を見えにくくする。例えばテック起業家たちが強調する(例として挙がっていたのはザッカーバーグ)「失敗する自由」だが、そのような自由を持つことができる人はすでに恵まれた地位にいるとドーブは指摘する。そして、人と違い、ネットで叩かれるなどの仕方で他人から標的にされることが「排他的な貴族の秘密のサイン」として機能する結果、常識とあえて違うことを言って反感や賞賛を買うという「逆張り」パフォーマンスのために、言説空間全体が設定されてしまうことをドーブは懸念する。こうした特徴は、アメリカ同様に、語気が強い起業家が識者として重用される日本の言説空間にも該当するのではないだろうか。
敢えて直感に反する逆張りを主張して人気を博す現代の言説空間の代表例として、ドーブはオーストラリアのWebマガジン「Quilette」も挙げている。このマガジンは、先に挙げたテック業界の巨人たちと同様に、連日アメリカのメディアを騒がせている「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ(I.D.W.)」と深い関係を持ち、ティールにも支援されているとまことしやかに言われている。「インテレクチュアル・ダーク・ウェブ」が聞きなれないとしても、つい先週、ニール・ヤングが怒りと共に批判したポッドキャスターのジョー・ローガンならば憶えている人もいるだろう。
このグループには、数学者でティール・キャピタルのマネージング・ディレクターのエリック・ワインスタイン、サム・ハリス(脳神経科学)やジョーダン・ピーターソン(心理学者)、進化生物学者のブレット・ワインスタインとヘザー・ヘイングのような学者から、先述のローガンのようなコメディアンまで実に多様な人が含まれる。後述するが、しばしば「右派」と一括される彼らは政治的な立場も一様ではない。しかし、彼らに共通しているのは、基本的に「ポリティカル・コレクトネス」や「キャンセルカルチャー」に抵抗することであり、敢えて「言論の自由」の名の下に「ポリティカル・コレクトネス」に抵触するジェンダーや宗教に関わるデリケートな問題を自然科学のエビデンス(証拠)に基づいて取り上げるという点である。例えばジェンダーや人種の差異は社会的に構築されたと主張する左派に対して、生物学的な差異は歴然と存在するといった主張をするのがI.D.W.だ。
しかし、繰り返すが、彼らは必ずしもイデオロギー的な意味で「右派」なのではない。何よりも彼らに共通するのは、特定の「メジャーな」言説空間から排除された、攻撃されたという自己認識である。彼らはまさに被害者としての自己認識を持った人物であり、そのような共通の傾向を持った人物が個々に「メジャーな」言説空間に対して逆張り的主張を行い、I.D.W.と名指されるようなグループが形成されたに過ぎない。
最もわかりやすいのはブレット・ワインスタインとヘザー・ヘイング夫妻だろう。彼らはエバーグリーン州立大学のリベラル寄りの教授であったが、白人の学生が一日キャンパスを離れることを求められる「欠席の日」に反対したことから人種差別主義者の汚名を着せられ、職を辞した。また、先に挙げたWebマガジン「Quilette」のファウンダーはクレア・レーマンというオーストラリア人女性だが、彼女は2013年に「進歩的な論客は、結婚が女性や子どもにとって実際に良いこと、幸せな結婚がより良い幸福、長寿、生涯の健康と関連していることを認めたがらない」とシドニー・モーニング・ヘラルド紙に寄稿したことからフェミニズムにバッシングに遭い、オーストラリアの主要な新聞で執筆機会を持てなくなったと言う。しかし、排斥には別のパターンもあるのだ。この辺りの経緯については、I.D.W.について最初に包括的に論じたバリ・ワイズの『ニューヨーク・タイムス』の記事がバランスが取れていて参考になるが、例えば、アブラハム系の宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)を批判し続けてきたサム・ハリスは、元々は右派に嫌われる無神論者だったが、2000年以降は文化的多様性を信奉する左派にも排斥される存在になった。また、保守派の政治評論家、ベン・シャピーロは、反トランプ主義者であり右派のコミュニティを批判した結果、極右団体のオルト・ライトの「反ユダヤ主義」の中傷に晒されている。
レーマン筆頭に多くのI.D.W.の関係者は自分は政治的には中立であり、政治より科学や真実(truth)に関心があると主張する。反ワクチンの思想を垂れ流し、過去にはNワードを連発していたことから、先週激しい批判に晒されていたジョー・ローガンにしても、明確なイデオロギーがあるというよりは、リスナーが欲しがる論争をばら撒いているに過ぎない印象がある。
2018年のワイスの記事を読む限り、「真実」や「言論の自由」を掲げるI.D.W.が視聴者の人気取りのために結果的に右派批判よりも左派批判に陥りがちであることをエリック・ワインスタインも認めている。だからローガンが放免されるべきだということでは毛頭ないわけだが、問題は、被害者意識を持った人の逆張りが視聴者を惹きつけるという、コロナ禍でさらに強化されてしまった言説空間の傾向であり、それを利益に結びつけるSpotifyのようなテック企業の姿勢にこそあるように見える。この言説空間のなかで展開するI.D.W.の拡大バージョンにはスティーブン・ピンカーのような論争的な心理学者がリストアップされることもあるし、最近では、保守へのアファーマティブ・アクションを主張する社会心理学者ジョナサン・ハイトまで含まれることもあり、アンチポリコレならばI.D.W.という主張内容を吟味しない乱雑なグルーピング自体に困惑を覚えざるを得ない事態も増えている。
以上で見てきたテック・エリートに顕著な、エリート主義と一体化した被害者意識の起源は何か。ドーブは、フリードリヒ・ニーチェの「奴隷の道徳」論の悪用、ジラールの悪用、アイン・ランドの影響、更には西海岸のカウンターカルチャーなどを散発的に示唆している。しかし、これらを実証的に後づけるには慎重な検証が必要だろう。ドーブの議論は歴史的背景の検証が甘いと言う難点はあるとはいえ、その問題提起は貴重である。私たちが様々なアプリやデバイスを通じて不可避的に影響を受けるシリコンバレーの思想を見極めるためにも、カウンターカルチャー思想の影響と展開を検討する作業は継承されるべき課題である★1。1995年にイギリスの社会学者、リチャード・バーブルックとアンディ・キャメロンが指摘したように、シリコンバレーの「カルフォルニアン・イデオロギー」が右派の新自由主義と左派のカウンターカルチャー、東のヤッピーの起業家精神と西のヒッピーの急進主義のハイブリッドなのだとしたら、最初から矛盾を孕んだこの運動体がどのように展開して、現在のサッカーバーグやティールやマスクを生み出すに至ったのか、イデオロギー的なバイアスに囚われない分析が求められる★2。
言うまでもなく、被害者意識とは真の被害者にとっては絶対的に不可欠なものである。更に、選民意識とカップリングした被害者意識もまた、たとえいささか病的だったとしても、歴史上多くの芸術家、政治家、哲学者、起業家など、社会に変革をもたらそうとした人たちの動機になっていたはずで、それ自体が悪いものだとは言い難いだろう。ここでジラールに依拠することが許されるならば、そもそもこうした他者への嫉妬とないまぜの被害者意識(ニーチェなら「ルサンチマン」と呼ぶ感情)は、人間社会で生きる限り完全に免れることは不可能である。問題は、ドーブがいみじくも指摘したように、テック・エリートやその周辺に繁栄するI.D.Wが社会に過剰に撒き散らすキャンペーンによって、言説空間が被害者意識と逆張りに支配され、現実の権力構造、すなわち誰が本当に被害を被り、苦しんでいるのかが、ますます見えにくくなってしまうことである。前時代的でナイーヴな手段かもしれないが、排除と逆張りとは異なる論理、そのような空疎な関係性に解消されない実のある思想やコンテンツ以外に、この言説空間を解毒していくものはないだろう。
★1日本でよく読まれているカウンター・カルチャー批判にカナダ人哲学者のジョセフ・ヒース/アンドルー・ポターによる『反逆の神話』(旧版:NTT出版、新版:早川書房)があるが、これらのアメリカの外部にいる研究者によるアメリカ文化を相対化する研究は、トクヴィル以来、非常にクリティカルで重要である。
★2バーブルックらは、政府の援助によってしか個人の自由が実現できない点にも「カルフォルニアン・イデオロギー」の矛盾を見ているが、ティールはその矛盾を見越した上で、共和党、さらには政府に対するテック企業による文字通りの支配を進めることで、独占的な自由を実現しようとしているようにも見える。
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa