『進撃の巨人』について考える:この物語は人々の救いなのか、それとも絶望なのか
Netflixなどで毎週月曜日に公開されているアニメ『進撃の巨人』は、日本国内外で人気があり、コミックが最終回を迎えた後も、世界中の多くの人が注目している。2月28日に公開された第83話「矜持」は、公開が1週間遅れ、その遅れた間にロシアがウクライナに軍事侵攻したことから、今回の内容である主人公による
#進撃の巨人 #
culture
2022/03/06
執筆者 |
Erie Kawai + elabo編集部

Erie Kawai

2001年生まれ。国際バカロレア取得後、モナッシュ大学に在籍し、政治とメディア学を同時専攻する。日々海外のメディアや大学の授業を通して、日本の視点との違いに注目しながら社会問題を扱う。

明らかに政治的な内容を扱っている『進撃の巨人』

 

Netflixなどで毎週月曜日に公開されているアニメ『進撃の巨人』は、日本国内外で人気があり、コミックが最終回を迎えた後も、世界中の多くの人が注目している。2月28日に公開された第83話「矜持(きょうじ:自分の能力を信じて抱く誇り★1 )」は、公開が1週間遅れ、その遅れた間にロシアがウクライナに軍事侵攻したことから、今回の内容である主人公による大量虐殺とその正当性について多くのファンが議論することとなった。

 

この状況を見ていて、改めて「なぜ進撃の巨人は政治的で、タブー的な話題にもたくさん触れながらして、こんなにも日本でも世界でも人気なのだろうか?」という、かねてからの疑問が浮かんだ。そもそも、日本ではアニメやコミック文化のみならず娯楽全体が政治的であることを好まない。日本ではこれは多分、日本人の政治嫌いからきているのだろうが、少なくともアジアの国々では、こうした日本のアニメや娯楽作品の非政治性が人気の要因になっているように思う。こうした非政治性が土台となったグローバルな人気は、KPOPにも通じるものがあるだろう。

 

だが、『進撃の巨人』は明らかに違う。最初期については、「人喰い巨人VS人間」というショッキングで新鮮な設定が人々の心を掴んだが、現在に至る長期に渡る人気は、『進撃の巨人』が政治的であり、物議を醸すタブーを扱う作品だと完全に理解した上でのものである。

 

米国で極右と左派の両者に愛される『進撃の巨人』

 

進撃の巨人にはこの話をしていいのだろうか?という気分になるような話題が戸惑うことなく直に描かれている。ストーリーの隅々まで社会問題が散りばめられ、その内容は人種差別問題、歴史問題など多岐に渡る。大ブームになっている漫画・アニメにしてはあまりにグロテスクでリアルに現実世界の問題が描かれているので、筆者も含め、戸惑ってしまう読者も多いようだ。例えば人種差別の問題については、「化け物になってしまう遺伝子」という形で、エルディア人を題材に目に見えない人種差別について描かれており、あまりにもユダヤ人差別と状況が似ている。そのエルディア人の虐殺が、ナチスの優生学思想を思い起こさせるのは言うまでもないだろう。また、作中の重要なシーンで必ず「戦え」というフレーズが出てくるのだが、それが何度も繰り返されることで、この作品は戦うこと、暴力を肯定しているのではないかという気分になってくる。もちろんこれが単に「巨人という怪物と戦え!」というこの作品が当初演出していた設定だったのなら、悪者をやっつける「観ていて楽しいアニメ」ということで済んだだろうが、最後のシーンでの「戦え」はどうだろうか。あたかも戦争というもの自体を全肯定しているように聞こえないだろうか。

 

以上のように政治的な観点から『進撃の巨人』を観た時に、果たしてこのファシズムと差別を扱った作品の真のメッセージは何なのか、と少なからず読者は居心地が悪くなる。そして、その傾向は作品のメッセージと現実の政治を結びつけて捉える海外で一層強く、コミック版が最終回に向かうにつれ、『進撃の巨人』はファシズムを肯定している危険な漫画なのではないかという議論が度々勃発した。

 

まず大前提として、海外でもリベラル寄りのファンの多くは、この作品をファシズムや人種差別が社会に及ぼす影響をストレートに非難する作品として受け止め、賞賛した。このリベラル寄りの解釈では、エルディア人イコールユダヤ人だと理解されている。しかしながら他方で、この差別された者の武装革命を描いたこの作品は、極右のオルタナ右翼にも熱狂的に支持されている。彼らにとっては、エルディア人は西洋諸国の白人である。巨人に囲まれたエルディア人は、オルタナ右翼にとって、白人至上主義を忘れた白人たちが、祖先の帝国が犯した罪の罰を受けて、自分たちの土地に入ろうとする人間以下の怪物に包囲されているように映るのだ。要するにオルタナ右翼にとっては、エルディア人=白人は、非エルディア人=有色人種に対する暴力を放棄した国家指導者に洗脳され、有色人種に共感を覚えるようにリベラル派によって洗脳された白人を表している。そして、マーレはユダヤ人を代表し、白人が自分自身を憎むように説得していると極右ファンは解釈するのである。この文脈では狂気に駆られた主人公のエレンが行う民族浄化は、ヒーローが計画する偉業にほかならないことになる。

 

このような極右ファンによる解釈が曲解だと言い切れないのは、エルディアの設定が十分にナチス・ドイツを暗示しているからだ。エルディア人の社会は、一人のアジア人女性を除いて民族的に同質であり、名前のあるエルディア人はすべてヨーロッパ人の名前を持っている。その見た目は、白人であることを意図しているかどうかは不明だが、そもそもほとんどの日本アニメで使われている青白い「無国籍」のデフォルトのキャラクターデザインテンプレートは、日本では日本人、米国では白人と解釈されることが多い。エルディア人の自国に対するクーデターは反植民地革命と読むこともできるが、オルタナ右翼は平和主義国家に対する民族主義者の一揆と解釈している。また余りにも明らかなことに、オープニングのテーマ曲はドイツ語で歌われている。

 

加えて、非常にややこしいことであるが、エルディア人をユダヤ人とみなした上で、彼らが迫害に合っている状況を喜んでいる極右のファンもいると言う。このように右寄りに解釈される背景には、実際に日本帝国陸軍の秋山好古将軍がキャラクターのモデルになっていたり、ミカサが戦艦の名前だったりと、垣間見える作者の帝国主義、軍国主義嗜好があるとアメリカのメディアでは指摘されている。またこのような作者の嗜好を1990年以降の日本の右傾化と関係付ける言及も存在する

 

様々な問題を当てはめられるフォーマットとしての意義

 

以上のように、『進撃の巨人』は読者や観者のイデオロギーに合わせて様々に解釈されうる枠組みを提供することにより、論争を巻き起こしている。作者が作品の解釈について何も言及しないというスタンスを取っている以上 、これが右翼的なイデオロギーに利用される危険性もまた否定できない。映画「ジョーカー」と白人至上主義の関係性のように、フィクション作品が特定の考えを支持しているわけではないのに、一部の人間から危険な思考の正当化に使われてしまうことは、『進撃の巨人』が初めてではない。twitterのファンの反応を見る限り、世界情勢がますます不安定になっている中、『進撃の巨人』の人気は、今のところ大量虐殺や差別をさらに強く否定する方の手助けとなっていることが救いだろうか。

 

私見では、この作品が議論を呼ぶのは、場面設定や特徴があまりにもリアルに上手く描かれすぎているからだ。あまりにもリアルであるがゆえに、皆が自分の思想を明確にするフォーマットとして、ある意味では当事者的に捉えずにはいられない作品なのである。この作品が、多くの人、しかも国内外問わず多数の人々に問題を意識させ、考えさせることに成功したと言う意味では私は希望があると思っている。今まさにファシズム的な暴力に世界が対峙する中で、この作品が持つ意味が今後どのように発展するのか、一ファンとして注目したい。

 

★1――Oxford Languageより

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2022/03/06
執筆者 |
Erie Kawai + elabo編集部

Erie Kawai

2001年生まれ。国際バカロレア取得後、モナッシュ大学に在籍し、政治とメディア学を同時専攻する。日々海外のメディアや大学の授業を通して、日本の視点との違いに注目しながら社会問題を扱う。

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