柳澤:elaboというカルチャーに関するメディアを複数世代で運営している中で、好きなものがどんどん細分化して、同じ世代であったとしても共通の話題がなかなかないことを実感しているわけですが、その中でも「お笑い」は数少ない共有されているジャンルということで今回改めて「お笑い/コメディ」にフォーカスを当てて3本の記事をまとめてアップしました。実際、elaboの過去の記事の中でも、「お笑い」の関する記事、特に「誰も傷つけない笑い」に関する記事【記事リンク】https://www.elabo-mag.com/article/20210514-09 は継続的に読まれていて、人々の関心の高さを感じていました。木々さんが今回書いてくれた記事もこの「傷つける/傷つけない問題」が中心にありますが、そもそもどういう背景があってこの記事を書いたか教えてもらえますか?
木々:元々「お笑い」が好きで去年のM-1グランプリなんかも、Twitterとかで周りの人の反応とか見ながら楽しんで観ていました。ウエストランドが出た時も、愚痴愚痴言いまくる芸風でめちゃくちゃ荒らしてほしいぐらいに思ってたんですね。それで結局優勝したんで、やりやがった!みたいな感じでいたんですけど、Twitter上で自分が関わっている人たちにまで結構その結果に反発する人たちがいるのに驚いて、そこで感じた違和感を出発点にこの記事を書いた次第です。
柳澤:どういう反発だったんですか?
木々:そうですね。反発としては、ウェストランドの芸について「あれはバックラッシュだ」とか「弱者男性の被害者妄想による主張だ」みたいなのが多かったですかね。
ヨセフ:今、木々さんがおっしゃってたリアクションっていわゆるリベラル側の意見だと思うんですけど、「お笑い」サイドの批判としては、関西の芸人を中心に「あれは漫才じゃない」っていうのも大きかったですよね。なので、今回のウエストランドは、全方面から叩かれてるように感じます。ウエストランドを擁護する側は、基本的には「面白いからいいんじゃないか」っていう意見だったと思います。その割り切り方は僕は「お笑い」を考える上で、重要じゃないかなと思うんです。
木々:自分と同じようにリベラルな考えを持っていると思っていた人たちが、突如「インセル男性の主張だ」とか言い出して本当に驚いたんですよね…。こんなにあれもダメこれもダメみたいになったら、最終的には「お笑い」っていうジャンルそのものに多種多様さがなくなっていって、ジャンル自体衰退するんじゃないかっていう危機感を感じました。
ゆいみ:この前もワイドナショーから松本人志が「卒業」とかありましたが、お笑い芸人がバッシングされる状況多いですよね。そもそもお笑い芸人が何かの専門家なわけでもないのに、完全な回答を求める方がおかしいと思うんですけど。ウエストランドを批判した人たちにも思うのですが、これは「お笑い」芸人がやっていることである、というメタ認知ができていないのかなと思ってしまいます。発言そのものに激怒してしまっているので。
柳澤:ヒップホップが好きな者としては、アーティストが自分をリプレゼントしているという感覚は確かにあるなと思っていたのですが、気がついたら、「お笑い」であれ、映画であれ、音楽であれ、「自分の意見を代表しているか」どうかで人々が判断する傾向が近年どんどん強くなっている気がして結構戸惑うんですよね。もちろん作品を受け止める時、自分に関係がある、共感するっていうのは大事な要素でそれは以前から変わらないと思うんだけど、その範囲が狭くなって、シグナルにただ反応しているみたい支持したり、嫌ったりしている気がする。
ヨセフ:そういう傾向がコンテンツ消費に全面化してるっていうのは肌感覚としてはわかるんです。ただ、これがなぜなのかって言われると難しいんですが、よく言われていることではありますけど、SNSやインターネット上の情報量が過多なので、自分の感覚に近いものだけを選ぶという傾向は強いでしょうね。 あと、マスメディアそのものへの不信感があるから、自分にとってのインフルエンサーからの情報に盲目的に従っている傾向もあると思います。ワイドナショーの話もそうですが、お笑い芸人がコメンテーターをしていることは、そういった動きの象徴のような気がしますね。
ゆいみ:Twitterでも、トレンドに上がった話題に、ある程度フォロワーがある人たちは発言しないといけないみたいな流れがありますよね。それでまた「あの人の言ってることは好き」みたいになって、音楽も聴かずに自分と同じようなことを考えているから好きってフォローしていく。
木々:インフルエンサーとも関係しますけど、私はファンダム文化にも問題があると思っています。何か特定のコンテンツとか人が好きっていうことが、そのまま個人のアイデンティティとか、その集団の党派性みたいなものになってしまってるじゃないですか。推しは推し、自分は自分、と言う形で自分のアイデンティティを見つけることが難しくなってる問題があると思います。私自身小学生ぐらいからなんかしらのアニメとかゲームとか好きでしたが、ここ3年ぐらいで急に「推し活」がどうとかメディアが言い出して、すごいポジティブな目で見られることに対して違和感がずっとあって、ある程度距離を置くようになったのかなとは思います。推す対象を選ぶ以前に「推す」ということには相対的な視点がないので限界があります。
あとはやはり2020年以降から、SNSのアルゴリズムもますますエコーチェンバー的になっているように思っています。だいぶ前からInstagramやTikTokはその人に合ったおすすめ画面がトップに出てくるようになってるんですよね。Twitterも、フォローしてる人を投稿した順で表示する画面と、おすすめの画面を切り替えて表示できる機能が何年か前からあったんですけど、つい何ヶ月か前ぐらいから、おすすめの画面がトップでわかりやすく出てくるようになりましたね。
柳澤:ジョナサン・ハイトという私たちのウェブで翻訳も掲載している社会心理学者が今、みなさん世代へのソーシャルメディアの悪影響についての本をまとめているそうなのですが、その出発点となった共著書『傷つきやすいアメリカの大学生たち(The Coddling of American Mind)』のなかで、Z世代が脆弱で傷つきやすいという議論を展開しています。
過保護な生育環境、ソーシャルメディアによる不安感の増幅、社会的な環境の不安定さ、学生をクライアントとしてサービスしてしまう大学環境などその原因を挙げています。大学で教員をやってる者としては、特に大学のあり方について思い当たることが多く、重要な指摘がされていると思っています。同時にZ世代の皆さんに聞きたいのは、実際自分たちは傷つきやすくなってると思いますか?笑 日本のZ世代としてはどうでしょう?
ヨセフ:自分の経験によった話になってしまうんですけど、Z世代とメンタルヘルスの問題が言われるようになって、今までの不調だったりとか、駄目だった部分に対してちゃんと言語化される環境になった。これには良い面もあると思うのですが、ただ、それでかえって問題が重大なものなんじゃないかという過度に気にしてしまう感覚もあるような気がします。また、ほかの世代との比較は難しいですが、自分が心を許せる存在を確実に保持しておきたいみたいな感覚、自分の世界を守りたいっていう傾向は自分の世代には強いとは思います。これは最近問題が提起されている「推し」の話にも重なる気がしますね
ゆいみ:私の親しい友人にも、自分が傷ついた出来事があるとTwitterなり、インスタの小規模のアカウントで自分が傷ついたことを表明してくる人がいます。ただ面と向かっては絶対に言わないので、こちらも何も言えなくなってしまうんですよね。
柳澤:私のような旧世代だと藤子不二雄Aの魔太郎のノートとかあって、呪ってやりたい奴の名前を書き連ねるフィクションがあったわけですが、呪いのノートではなく、傷ついたことを書き連ねてストーリーで流しちゃうわけですね。
ゆいみ:ソーシャルメディアに傷ついたことを流せるっていう環境によってますます傷つくことが促進されていくっていう状態があるかなって思います。インスタグラムはそういう傷つきやすさとか傷つかないための優しさとかに溢れているんですよね。反対に、TikTokは逆張りというか、対象を見つけたらそれに対して言及するみたいな、そういう結構攻撃的なスタンスのインフルエンサーが結構いるなって思うんですよね。例えば、「れてんジャダム」というYouTuberがいるのですが、彼らの芸風はまさに「傷つきやすさ」の逆張りだと思います。TikTok上では彼らの切り抜き動画が人気で、攻撃的なスタンスのインフルエンサーとTikTokというプラットフォームの相性の良さを象徴していると思います。
柳澤:面白いですね。ある意味ではインスタ的なものとTikTok的なもの同士で二極化してるのか。ちなみにハイトは、「傷つきやすさ」に対して社会心理学者らしくパキッとした処方箋を示していて、小さい時から不快なものにいっぱい触れるしかないって言うのね。それで、それはその通りだなとも思うんですけど、日本だけとってもそのような方向に変化していく可能性は低いと思うというか、今の悪循環がそんなに簡単に変えられない気もするのです。
木々:傷ついたときにそれを適切に表現する方法を持ってる人が少ないのかなっていうふうに思うんです。すぐ被害者意識に偏って、「お前たちが悪いんだ」って敵を作ってしまう。現状はそういう発想が本当に多いと思うんです。
柳澤:被害者意識については私も思いますし、ハイトたちも「被害者化(victimization)」を若者の特徴の一つとして挙げていましたね。ただ私自身は、その傾向は若者だけではなく全世代で強まっているように思っています【記事リンク】(https://www.elabo-mag.com/article/20220215-01)。
木々:私の外部には敵がいるっていう前提が、多くの人の発想の前提としてできあがってしまっている気がしています。だからこそ、今闇雲に傷つく体験を始めるというよりも、どういうふうに傷つく体験をしてその上でどういうふうに「私は傷ついたんだ」ってことを表現するかっていうのが重要なポイントになってくるんじゃないかなと思います。やっぱりストーリーだったりSNSだと根本的に解決すべき手段にはならないと思っています。
ゆいみ:自分の経験の話で恐縮ですが、ストーリーに傷ついたことを流している友人は、謝ろうとしても向き合ってくれないんですよね。向き合って欲しいんですけど。ほかのケースで、友人と大喧嘩してそれで仲直りしてっていう経験があるんですが、その経験が私の対立を恐れなくなった原因でもあります。
木々:私は小学校くらいから相当ネットに親しんでいた方なんですが、根本には何かネットってそんないいもんじゃないっていうか、ゴミみたいなもんだと思ってて、ネットの話って所詮こんなもんだよねぐらいに話半分で聞く姿勢がずっとあったんですね。最近になって、多くの人が気づき始めていますが、ネットでのコミュニケーションには相当限界があります。ただ、絶対生身の人とのコミュニケーションじゃないといけないとも思ってなくて。たとえば本を読むだけでもネットでの情報収集とは全然違う相対的な視点が持てるようになると思います。大学に入って、エッセイとか学術書を、現実逃避じゃなくて、現実とちゃんと向き合うための手段として読むようになって、それが自分のいる環境や自分の意見、他人の意見を相対化できるようになったことと繋がっていると思います。
ヨセフ:先程、インスタが「傷つけない」世界であるのに対して、TikTokやyoutubeなどで逆張りがあるという話でした。これはAbema TVなどは「傷つけない」マスメディアの逆張りみたいになっていて、笑いでいうと冷笑的で過激なものが多いと感じますが、ウエストランドと冷笑系との違いについてはどう思いますか?
木々:そうですね。特に吉本とかの話になっちゃうんですけど、維新と関西の芸能界が近いっていう問題もあると思うんです。
柳澤:いきなり大きい話になったね(笑 )
木々:そう。単純に個人個人の問題だけで片付けられるものじゃなくて、芸能界の構造みたいなのが、多かれ少なかれあると思うんですけどね。あっちかこっちかで、全部党派的に捉えられてしまって、みんな党派ごとに寄っていってしまう。吉本も維新みたいになっていく、冷笑系に接近する。でもよく見たら相当多様なものまで一緒くたに逆張り「冷笑系」にカテゴライズされている可能性もあると思うんです。
ヨセフ:大きな構図として、吉本が維新的なものと一体になって笑いの保守として存在していて、それに対してウエストランドが小さい事務所であるタイタン所属で今までと違うお笑いで勝った。これが、新しい展開だったから興奮したっていうのも今回のM-1では絶対あったと思うんです。だけど吉本の中も実際は多様なんだという指摘はその通りだと思います。
柳澤:堂々巡りにはなってしまうけど、観る側としても評価基準を単純化しないで、差異を見分けていけるのが理想ですよね。「傷つけない」とそれに対する「冷笑系」、「逆張り」って、全部相当大さっぱな話であるのは間違いがないですね。
木々:そもそも個々の表現の違いについて考え続けること自体を面白がれる習慣を、たくさんの人が持っているといいなって思います。
柳澤:名言ですね。私たちのメディアが一番伝えたいことだと思います。