1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
ケンドリック・ラマーが5年ぶりにフルアルバム『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』をリリースした。すでに複数の優れた解説が示しているように、このアルバムは、ケンドリックの抱える様々な痛みとその昇華をテーマとし、明らかにセラピーセッションを思わせる構成になっている。そのセラピーの導き手として、ケンドリックは、売れっ子の自己啓発系の著作家エックハルト・トールを連れてきた。正直なところ、本作のゲストに関して、すでに物議を醸したKodack Blackよりも、トールという人選のほうが私にとっては驚きだった★2
タイトルにある「ミスター・モラル」とは、道徳的に正しい状態に到達するべく奮闘する人物像、おそらく多くの人がケンドリックに一方的に託していたかもしれない正義のヒーロー像である★3。それに対置されるのが、不倫、セックス中毒、ホモフォビア、トランスフォビア、テキストの打ち過ぎで指まで痛める「ザ・ビッグ・ステッパーズ(大股歩きの人/道を踏み外す人)」だ。アルバムのストーリーは、「ビッグ・ステッパーズ」がセラピーセッションを通じ「ミスター・モラル」に昇華される構成になっている。つまりアルバムの前半では、「ザ・ビッグ・ステッパーズ」の有害さが、主にパートナーのホイットニーとの関係のなかで描写され(「Worldwide Steppers」)、あるいは演劇的に演じられ(「We Cry Together」)、ケンドリックはホイットニーの勧めでセラピーを開始し(「Father Time」)、自分を見つめ始める(「Purple Hearts」)。「Count Me Out」から始まる後半で、彼は、過去の自身のトランスフォビアの記憶(「Auntie Diaries」)、家族内の性的虐待の記憶(「Mother I Sober」)など、アフリカ系アメリカ人のコミュニティではなかなか語ることが困難な問題に対峙する。そして、トラウマ的記憶から解放されたケンドリックに対し、ホイットニーは彼が世代間で継承されてきた「呪いcurse」を切断できたことを言祝ぐ。
本作は、問題提起からその解決に至るまで、あまりにも今日的な作品だ。むしろ音楽的な快楽以上に問題提起のほうが勝ってしまっている作品だとさえ言えるだろう。ケンドリックが言及する様々な問題は、コロナ禍に広がった漠然とした不信感、SNSへの依存、ブランドの過大評価、セレブへの過剰な依存、「キャンセルカルチャー」から有害な男性性に至るまで、他国に生きる人間にとっても無関係なものは一つもない(その問題選択自体がケンドリックがインターネットからの情報に相当影響されていることの証左かもしれないが)。本作が主題化した問題の中でも、最も深く掘り下げられているのが家庭内の(性的な)虐待であり、これもまた多くの社会が未だに解決できていない重い課題であるのは言うまでもないだろう。そして、これらの深刻な問題に対して与えられる処方箋が自己啓発的なセラピーだと言う点まで含め、このアルバムは、2022年という私たちの時を克明に映し出している。
エックハルト・トールという人選の何が問題なのか。比較的扱いやすい問題から始めるならば、ケンドリックは本作の前半で、豪奢なセレブリティとしての生活を批判しているが、トールはオプラ・ウィンフリーによって有名になったセレブ御用達の「スピリチュアル・リーダー」に他ならないからである。ドイツ生まれ、イギリス育ちでカナダに在住しているトールのバックグラウンドには不明瞭な点が多いため、現在も著作とオンライン講座で絶大な人気を誇っている彼の信頼性を訝しむ記事も散見される。いずれにしても明らかなのは、トールが、インフルエンサーのオプラが持つ巨大マーケットにおいて売れたあまたいる自己啓発系文筆家の一人に過ぎないということだ。
トールの主張は珍しいものではない。基本的に、「本当の自分」探しから内面の探究が始まり、結果何か大きな宇宙的存在を発見し繋がるという典型的なニューエイジ思想の筋書きに即していて、そこにイエス・キリストや仏陀など、古今東西の知者の言葉が散りばめられてある。カンザス州の大手書店のヴィヴィアン・L・ジェニングスはトールの本を、「本質的に、古代の知恵のいくつかを取り上げて簡単にしたもの」で、「この知恵を得るために20冊も本を読む必要はないのです。私は14ドルのペーパーバックで提供しよう」というのがトールの姿勢なのだと述べている。またパブリッシャーズ・ウィークリー誌の編集長サラ・ネルソンは、トールは、ロンダ・バーン著『ザ・シークレット』やエリザベス・ギルバート著『食べて、祈って、恋をして』など、オプラ・ウィンフリーが支援する、スピリチュアル思考で大衆に訴える、ベストセラー市場の一部にすぎないと言う。
トールを自分の精神的リーダーとして掲げることは、セレブであることの意図的かつ露悪的なセルフボースティング(自慢)なのだろうか。実際、このアルバムのリリース以降のケンドリックにはこれに似たような不可解な矛盾した振る舞いが多い。本アルバム二曲目の「N.95」に以下のような印象的なフレーズがある。
「Take off the clout chase, take off the Wi-Fi ,Take off the money phone, take off the car loan, take off the flex and the white lies, Take off the weird-ass jewelry(有名人にただノリするのを止めろ、Wi-Fiを捨てろ、携帯電話を捨てろ、車のローンを捨てろ、フレックスと罪のない嘘を止めろ、奇妙な宝石を脱ぎ捨てろ)」
このようにラップしながら、ティファニーとコラボ制作をした300万ドル(約3億円)以上すると言われるダイヤモンドの茨の冠★4を被り、ルイ・ヴィトンのショーでパフォーマンスを行い、現在は、ヴィトンのスーツとマイケル・ジャクソンを思わせるラインストーンの手袋で着飾ってツアーを行っている。もちろんルイ・ヴィトンはアフリカ系の盟友V.アブローへのオマージュという意味もあるのだろうが、これ見よがしのラグジュアリーな装いで「虚栄を脱ぎ捨てろ」とラップするという、あからさまにその矛盾を意識せざるをえないパフォーマンスになっている。
またトールの登場は、前作までケンドリックの精神的な導き手を務めていたのが全て身近な黒人たちであったことを考えても、異質なものである。これまでのケンドリックのガイドやメンターは父であり、母であり、売春婦だった友人(『good kid, m.A.A.d city』)であり、魂の渇きを癒すために若いケンドリックたちに洗礼を勧める近所の女性であり(「Sing About Me, I’m Dying of Thirst」)、『ToPimp a Butterfly』の2Pacであり、『DAMN.』でケンドリックに「ブラック・ヒブルー(黒人ヘブライ人)」運動の思想を説く従兄弟だった★5(「FEAR」)
言うまでもなく、現実において全ての白人がレイシストなわけではないし、ケンドリックのアルバムには黒人しか登場してはならないと言いたいわけでは毛頭ない。おそらくケンドリックが、右翼系ニュース番組「Fox News」でケンドリックの「Alright」を批判するキンバリー・ギルフォイルらの言葉くらいしか白人の声をサンプリングしてこなかったのは、黒人が白人至上主義社会で強いられているシステミックな不平等を明示するためだ。
本作は、他のアルバムほどにはレイシズムの問題を中心にしてはいないが、Black(黒人)とWhite(白人)が織りなす、蔑視と憧れがないまぜになった複雑な政治性★6を明確に意識している。「Auntie Diaries」のラストには、Nワードをラップしたファンの白人女性をたしなめた4年前の有名なエピソードが引かれ、「Worldwide Steppers」では白人女性とセックスした経験(「I fucked white bitch」)が人種差別に対する「報復retaliation」として語られている。いずれのエピソードについても非常にとがった響きの語り口と早いピッチでラップされており、特に後者の2回目の白人女性との浮気については、彼の異変に気づいたホイットニーに対して「Imight be racist(俺は人種差別主義者/レイシストかもしれない)」という、言い訳と厳しい分析が相まった極めてコンシャスな回答をしている。
また、アルバムの後半で「白人(white)」という表現は消えるが、白色人種が関わるより根深く、過酷な問題が「Mother I Sober」で扱われている。ケンドリックの自己回復の決定的な転換点であるこの曲では、彼が5歳の時に母親から「いとこに触られたか」と繰り返し尋ねられたエピソードが語られている。ケンドリックは、尋ねられる度に感じた恐怖と共に、このエピソードの背後に、母自身が家庭内でレイプされた経験があること、だからこそ息子に同じことが起こることを恐れていること、黒人コミュニティで家庭内の性的虐待が女児に対するのと同時に男児に対しても行われていることを示唆する。その上で、Verse3には以下のようなリリックがある。
「A conversation not bein' addressed in Black families.
The devastation, hauntin' generations and humanity.
They raped our mothers, then they raped our sisters.
Then they made us watch, then made us rape each other.
Psychotic torture between our lives we ain't recovered.
Still livin' as victims in the public eyes who pledge allegiance.
Every other brother has been compromised.
(黒人の家庭ではされない会話
この惨状は何世代にもわたり人類を苦しめている。
彼らは俺たちの母親をレイプし、俺たちの姉妹をレイプした
そして、彼らは俺たちにそれを見させ、俺たちを互いにレイプさせた
俺たちは精神的な拷問から回復していない
忠誠を誓う★7世間の目に対しては、まだ犠牲者として生きている
他の兄弟は皆、妥協しているんだ)」
ここで言われる「we(俺たち)」と対置される「they(彼ら)」は、幾つかのレビューでは家族のメンバーと解釈されているが、白人を意味している可能性もある。つまり、ケンドリックが、黒人男性である自分のミソジニーの原因として、家族内の性的虐待とその背後にある黒人コミュニティが奴隷時代から負わされた歴史を見ているように読める。引用箇所の続きには全てのラッパーがこのような経験をしているという秘密(secret)も明かされている。奴隷制時代に白人が女性の黒人奴隷だけでなく男性の黒人奴隷も性的に搾取し、奴隷同士の性関係をも支配したこと、またこのような性を介した支配が奴隷から人間性を剥奪したことは歌詞分析サイトGeniusで指摘されているが、この事実は最近のアカデミックな歴史研究によっても裏付けられている。奴隷制時代の黒人男性の性的虐待について先駆的に扱ったトーマス・A・フォスターによる『RethinkingRufus: Sexual Violations of Enslaved Men (Gender and Slavery Ser. Book 2)』(Georgia University Press, 2019)では、このような白人からの性的虐待が、黒人男性のミソジニーだけではなく、ホモフォビアの原因にもなったことが示唆されている。つまり男性の黒人奴隷が男性によって性的に搾取されることが男性性を喪失するスティグマとなり、黒人コミュニティ内での根深い同性愛嫌悪になったと言うのだ。
ケンドリックが抱える痛み(pain)のバックグラウンドを確認した上で、改めて『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』の導き手が、謎多き白人自己啓発作家、トールであることに私はどうしても居心地の悪さを覚える。それはちょうどYe(カニエ・ウェスト)が自身の教会とも言えるサンデー・サービス(SundayService)に白人福音派(キリスト教右派)の牧師を迎え入れた時の失望にも似ている。
Ye(カニエ)もケンドリックも共に黒人のアーティストとして、白人からの搾取やレイシズムを告発し、同時に、自分たちのコミュニティについて反省する中で、黒人に内面化された隷属的心理を自覚するに至った。そして自分自身にも内面化された心理や習慣から自由になろうと格闘していくわけだが、その救いを求めた先に、導き手として白人男性が出現するのである。Ye(カニエ)の場合、それはドナルド・トランプに親近感を示すことであり、SundayServiceの牧師として白人の福音派牧師を迎えることであった。カニエがあからさまに反動的な仕方で、右派の白人を自らのメンターにしようとして黒人コミュニティから批判されたのに対して、ケンドリックはオプラお墨付きのニューエイジ、自己啓発系白人作家に接近したわけだが、実は同じ図式を免れていないようにも見える。
アメリカでは、ニューエイジや自己啓発といった1960年代以降に大きく発展した非科学的な精神運動から伝統宗教のキリスト教も強い影響を受けており、特に白人中産階級を中心としたキリスト教右派の福音派は多くの思想的な特徴を共有している★8。言い方を変えるならば、ニューエイジも自己啓発もキリスト教福音派も、政治的なイデオロギーにおいて対立することはありつつも、全て1960年代の米国で顕著に確立された、自己変革と物質的繁栄を目指し、個人の自由と感情的な幸福を至上のものとする価値観に基づいていると言う意味では同じ「American religion(アメリカ人の宗教)」なのである★9。
ケンドリックは、コミュニティに内在する最もダークな記憶に向かい合うために、コミュニティに属さない文字通り外部の導き手が必要になったのだろうが(今回トールも含め欧州からのゲストが多いことにもそうした「外部性」の必要性を感じさせる)、そこで手を伸ばした先にいるのが、セレブ御用達で白人中産階級に圧倒的に支持されている自己啓発系の白人スピリチュアル・リーダーだということ自体、彼が今置かれている現実をそのまま映しているようにも見える。結果的にケンドリックは広告塔として、多くのヒップホップファンにトールの思想を広めることになり、どうやらトール自身もそれを期待し、喜んでいるようだ。
ケンドリックは本作に先立つアルバムの中で、個人とコミュニティの関係に関して苦悩し、そこで得られた深い洞察を一貫して曲にし続けてきた。悪い遊びや飲酒をする仲間の同調圧力に悩み(「The Art of Peer Pressure」「Swimming Pool」等)、売れてからは、金持ちになったケンドリックを食い物にしようとするばかりで、自分自身への敬意を持てない地元の仲間について悩んでいたのである(「The Blacker the Berry」など)。『To Pimp a Butterfly』の最後の曲「The Mortal Man」では、2pacとの対話から美しい「芋虫と蝶」の詩を紡ぎ出し、地元から飛び立ってしまった自分と地元の仲間(フッド)はどちらも同じものなのだとケンドリックは詠った。こうした経緯を経て、本作でケンドリックは、自分も含めたコミュニティが内面化しているミソジニーやホモフォビア、先に見た性的虐待などの「カルチャー」に対峙するに至ったのだろう。
ギャング同士の闘争や性的虐待などの暴力を繰り返す「カルチャー」に向き合うにあたって、「ペインボディ」というネガティブな経験に対する「痛み(pain)」の蓄積を問題とするトールの理論が有効だったことは理解できる。トールの理論では、アメリカの黒人の奴隷時代に由来する集団的な痛みの記憶もまた「ペインボディ」だとされている。トールは、過去のネガティブな感情の蓄積=「ペインボディ」に基づく「エゴ」を自分と思い込まないように、今現在の自分に集中するように説く。この要約を読むだけで、『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』の最後の曲である「Mirror」の歌詞「Run away from the culture to follow my heart(自分のハートに従うためにカルチャーから逃げ出せ)」や「I choose me, I'm sorry(ごめん、俺は自分を選ぶ)」、そしてアルバムのリリース時にガーナで受けたインタビューで「I couldn’t even tell you what day it is, I’ve just beenin the moment(今日が何日かも言えなかったんだ、ずっと瞬間のなかにいるんだよ)」と語っていたことが、トールの思想に則していることが理解できる。ツアーで行われていた小さなケンドリック人形を伴う奇妙な腹話術も、トールの言うところの「エゴ」のわかりやすい表現なのだろう。
自己啓発によって心の平安を得ること自体を否定するつもりはない。しかし『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』をセラピーの形式を借りた「作品」と捉えるならば、その作品のなかで表現された「I choose me, I'm sorry」というリリックに感動することは、正直私には難しい。「I choose me, I'm sorry」とは、現代の個人主義が行き過ぎた社会に蔓延する言説以外のなにものでもないからだ。そもそも個人主義の国・アメリカの1960年代以降の価値観が凝集しているとも言えるニューエイジ思想の特徴とは、先にも述べたように自分自身の「感情的な幸福」を最高の価値とするナルシシズムであり★10、社会変革への関心の希薄さだと言われている。従って、ニューエイジや自己啓発のジャンルに含まれるトールの導きのもと、Black Lives Matterに積極的に関わらず(歌詞の文脈では「世界を救わず」)自分を優先させたことをいささかぶっきらぼうに謝罪する「Mirror」に、この歌詞はあまりにもぴったりなのだが、私たちはこのアポロジー(謝罪)から一体どこに歩み出すことができるのだろう。
Spotifyなどのストリーミングサービスで、この「Mirror」の後に、先行シングルの「The Heart Part 5」が追加されたことを知って、(曲調はアルバム全体に全くフィットしていないにもかかわらず)私はほっとしたのだ。「The Heart Part 5」でケンドリックは、かつては暴力に対する免罪符のようになっていた「(ヒップホップ/ブラック)カルチャー」が自分たちに継承されている呪いであることを告発しつつも、コミュニティ(hood)を引き受ける姿勢を保ち続けている。いくら有名なセレブリティなっても「カルチャー」の呪いとも言えるマスキュリンな暴力を反復してしまう同胞たち(O.J.シンプソン、Ye(カニエ・ウェスト)、ジャシー・スモレット、ウィル・スミス、コービー・ブライアント)を、ケンドリックは順番に代弁し、最後に殺されてしまった親友・ニプシー・ハッスルを憑依させ、いわば神の視点から加害者への赦しを詠っているのである。
米国の黒人コミュニティとは異なる仕方ではあるが、同様に前近代的な習慣が残存する社会に生きる者として、何が集団によって習慣づけられた振る舞いなのかを切り分けることはとても大切だと痛感している。しかし、古い悪習を克服するために「私」と「私の痛み」、「私」と「世界」、「私」と「コミュニティ」を対立させ不快なほうを切り捨て、ハッピーで快適な自分を立ち上げるだけが唯一の道ではないはずだとも同時に思う。切り捨てることの勧めばかりで、矛盾に取り組み続けるための言葉や、包摂の論理が圧倒的に不足している私たちの言説空間のなかで、ケンドリックは常に周囲を切り捨てないための言葉を生み出す天才だったのだ。コロナ禍でますます余裕を失った私たちは日々「I choose me, I'm sorry」を生きているからこそ「The Heart Part5」のミュージック・ビデオの冒頭に掲げられた「I am all of us」という言葉の迫力に圧倒されたのである。
私たちはケンドリックに救済されたいわけではなく、共に歩みを進めるための詩、彼にしか語りえない言葉を待ち望んでいる。近い将来、ケンドリックが「奇妙な宝石(weird-ass jewelry)」を脱ぎ捨てて、奇妙な自己啓発系白人作家にうっかり魅了された経験についてもラップする日が来たら、私はとても嬉しい。
★1――本稿の一部は真鍋ヨセフさんとの議論に基づいています。
★2―― アルバムでは実際にトールがケンドリックの名前を呼ぶなど(「Mr.Duckworth」)実際にセラピーセッションを行っているかのような表現がとられているが、トール自身のインタビューによれば(https://www.complex.com/music/eckhart-tolle-interview-kendrick-lamar-album)、ケンドリックとトールはコロナ禍以前にロサンジェルスのホテルで会ったことがあるだけで、その後実際にスタジオで録音した以外に特に交流はないようにも見える。だとしたらなおのこと、トールがセラピーセッションを行っているように演出したことは意図的なものだと言える。
★3――Twitter上でご指摘いただいたmoraleの解釈ですが、moralと混同してるというよりも、両者の元々の語源であるラテン語mos(複数形more)が「習慣」であることから考えて、両方の言葉には努力して習慣づけていくという意味が根底にあると筆者は理解しています。つまり勇気をもって自分を律していくところから「士気」という意味が生まれ、習慣づけの目的や完成形が「道徳」になっているという前提で、本文にあるように記載しているのですが、アメリカ英語ではmoralとmoraleは用法的に完全に分化しているということだとこの解釈はずれているのかもしれません。今後調査し、必要な場合は修正させていただきます。ご指摘、ありがとうございました(2022/08/17)。
★4――茨の冠が、イエス受難前に、彼を「ユダヤの王」と嘲るローマ兵に被らされた「嘲笑」の象徴であることを考えると、ケンドリックの冠は、無知な人々に「救世主」を担わされてきたケンドリックの被害者意識のシンボルにも見えなくもない。いずれにしてもイエスの受難と謙遜の象徴である茨の冠をジュエリーにするという極めて矛盾した表現は、キリスト教美術の歴史において私が調べた限り存在しない。
★5――「Black Hebrew Israelites」は、黒人を旧約聖書のイスラエル十二部族の子孫と捉える集団である。彼らは黒人は神に対して不忠実であったから現在のような過酷な状態を罰として与えられていると考える。ケンドリックは「FEAR」の中でこのグループに属する従兄弟のカールの言葉をサンプリングしている。非常に興味深いのはケンドリック以上にこのグループにコミットしているのは、今回のアルバムに招かれて物議を醸したKodack Blackである。
★6――大和田俊之『アメリカ音楽史:ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』講談社選書メチエ、講談社、2011年。
★7――アメリカ合衆国の国民として誓う「忠誠の誓いPledge of Allegiance」を意味していると思われる。
★8―― T. M. Luhrmann, When God Talks Back: , Understanding theAmerican Evangelical Relationship with God, Knopf, 2012.
★9―― H. Broom, The American Religion: TheEmergence of the Post-Christian Nation, Simon & Schuster,1992., C. L. Albanese, A Republic of Mind and Spirit: A Cultural Historyof American Metaphysical Religion, Yale University Press, 2007.
★10――クリストファー・ラッシュ『ナルシシズムの時代』ナツメ社、1981年。
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa