2000年、沖縄県生まれ。国際基督教大学4年。専門は平和研究、人類学。小学生の頃から沖縄戦についての平和教育を受けてきた。「継承」について考えるようになり、もっと発展した平和教育を目指して、大学では平和教育を専攻。副専攻は人類学だが、特にアートと平和の関係に興味があり研究テーマにする予定。
倉敷芸術科学大学の川上幸之介が、PUNK!展に続き、ふたたび観衆の好奇心を駆り立てるような面白い展覧会を開催している。それが、「Bedime for Democracy」だ。同展は、北千住にあるギャラリー「BUoY」【https://buoy.or.jp/】で9月25日まで開催される。
沖縄で生まれ育った筆者にとって、今年は沖縄が本土に“復帰”して50年の節目の年であると同時に、県知事選挙があった大事な年であるため、今回の展示は民主主義を再考できる絶好の機会だった。「デモクラシー(民主主義)」と聞いて思い浮かべられることは様々あるだろうが、筆者は非常にシンプルに、人々・人民という意味で “The people”、そして声を上げる意味の “Voice Up” または “Speak Out” を念頭に展示を鑑賞してみた。
展示は次の順で構成されていた。ナオミ・クライン, “Naomi Klein Speaks at Occupy Wall Street” →ブレッド&パペットシアーター, “Quo Vadis” “Birdcather In Hell” →松本俊夫, “Anpojoyaku (The Japan-US Security Treaty)” →マーサ・ロスラー, “Martha Rosler Reads Vogue” →リジー・ボーデン, “Born in Flames” →ヌオタマ・ボドモ, “Afronauts” →ヘイニー・スロール, “The Hour of Liberation Has Arrived” →レティシア・アグド, “After The Revolution” →ウィンストン・スミス, “Bedtime for Democracy”。 ウィストン・スミスの作品以外は、どれも映像作品だ。
順序通りに鑑賞するだけで、とにかく感情を揺さぶられた。まず、ナオミ・クラインの作品では、クラインの発する「We don’t get washed away(私たちは洗い流されない)」などの強いメッセージを聴衆が反復し拡声する「人間マイク」が印象的であり、作品キャプションを引用すると「民主主義の在り方について、新たな可能性を合唱する」と、なんとも希望を抱かせてくれる。
しかし、ここで抱いた民主主義への希望は次のブレッド&パペットシアーターの“Quo Vadis”で見失われる。ブレッド&パペットシアターの作品は人形を使用する演劇のため、 いわゆる人、“The People”は不在と捉えられるだろう。また、演劇は一切の言語を使用しておらず、ここでもまた “Speak Out”という行為が欠如しているため、民主主義とは何か、The Peopleとは誰なのか、そしてvoiceの重要性について考えさせられる。
そして極め付けは、松本俊夫の“Anpojoyaku” だ。「農民の頭を殴ることから始まった安全保障」「安全と平和の名の下に新しい戦争を…」などと、アイロニーが炸裂するこの作品は、失望感や無気力さが感じさせ、観る者は民主主義を悲観するように仕向けられる。この映像作品は60年代の学生運動が激化する直前に製作されたが、当時から60年以上経過した今もなお、なかなか変化しない対米追従に警鐘を鳴らすと同時に、日本から民主主義に対する希望が失われていくことを生々しく感じる。
この作品は、冒頭で述べた沖縄と深く密接に関わっている内容だったため、特に筆者の関心を引いた。先の沖縄県知事選挙では、投票率が52.92%と過去2番目の低さだったことや、県民の関心が基地問題よりも経済問題に向いていることから、人々の無気力さや無関心さを感じる結果となった。この直近の出来事と、59年製作の同作を重ねて見た時に、現状の変わらなさを痛感し、気持ちが萎えてしまうのを自覚する。この作品は、まさに日本における民主主義の限界を暗に示しているのではないだろうか。
リジー・ボーデンの “Born in Flames” とレティシア・アグドの “After The Revolution”、これら2つの作品同士にコントラストを発見できることも、今回の展示の面白い点の一つだ。前者は、社会民主主義から解放された虚構のアメリカが舞台となっており、女性がジェンダー、人種、階級の解放を目指して自衛軍を組織し行動を起こして行く中で、民主主義または社会主義といった政治の有効性に疑問を呈していく様子を映像で作り上げている。同作に登場する女性たちは、地下のラジオ局を拠点にしたり、放送局をジャックして自作テープを全国放送するなど、メディアを通して発信することに長けている印象を受ける。“Voice Up / Speak Out” することがアクティビズムの最善の方法だと表しているように受け取ることができる。
一方で、後者の作品 “After The Revolution” は、 “Speak Out” することを別の感覚で捉えている。この作品は、「独自の教育、医療、法制度を構築してきたサパティス自治区で暮らすコミュニティ内の女性たちによって起こされた、台所や寝室での変化を描いている」(キャプション引用)。映像中に登場するある女性の発言が、ボーデンの作品との対比を明らかに反映していた。
“People learn to speak out” (人は声を上げることを学ぶ)
そもそも、発言をすること自体、自然にできることではないということを、この一文は鮮明に表している。こうした理解が“Speak out” することを当然のことのようにこなす、ボーデンの作品に登場する女性たちと対照的だということがわかるだろう。作品中の先住民中心のコミュニティ内の女性は、「勉強する機会に乏しく、自分の権利についてよく理解できていない」と語られており、同じ女性であっても民主主義の捉え方に差異があることがわかる。
最後に、この展示の最大の魅力を述べるとすれば、それは展示会場のみで完結しない点だ。展示の中で民主主義について幅広く議論されていることも大きな理由だが、展示作品の鑑賞を通して感じたことを、さらに咀嚼して自分の中に落とし込んでいくためには、より多くの議論や知識を知りたいと感化される。筆者は展示を一通り見終わった後、手始めにウェンディ・ブラウンの『いかにして民主主義は失われていくのか−新自由主義の見えざる攻撃–』(中井亜佐子訳, 2017年)を読み、民主主義を再考したくなった。展示作品に知的好奇心を刺激され、いい意味でその後の学びのトリガーになっていることに気付かされる。DemocracyにとってはBedtimeなのかもしれないが、この展示を見ることはきっと目の覚める体験になるだろう。
2000年、沖縄県生まれ。国際基督教大学4年。専門は平和研究、人類学。小学生の頃から沖縄戦についての平和教育を受けてきた。「継承」について考えるようになり、もっと発展した平和教育を目指して、大学では平和教育を専攻。副専攻は人類学だが、特にアートと平和の関係に興味があり研究テーマにする予定。