聖人君主ばかりは要らない:クリスティアーノ・ロナウドから考える。
2022年のカタールワールドカップはアルゼンチンの優勝という形で幕を閉じた。日本は惜しくも目標のベスト 8 に届かなかったが、大会後も、三笘薫選手や久保建英選手の活躍が日本サッカーの人気に寄与している。
culture
2023/03/25
執筆者 |
io
(いお)

大学2年生。趣味はスポーツ観戦とHIP HOPを聴くこと。最近は大谷翔平と佐藤輝明に興奮している。

2022年のカタールワールドカップはアルゼンチンの優勝という形で幕を閉じた。日本は惜しくも目標のベスト 8 に届かなかったが、大会後も、三笘薫選手 (★ https://www.instagram.com/kaoru.m.0520/ ) や 久保建英選手 (★ https://www.instagram.com/takefusa.kubo/ )の活躍が日本サッカーの人気に寄与している。

この調子で活躍を続けてもらい、三年後に、今度こそ新しい景色を見せてほしいと、一サッカーファンとして切に願う。  

サッカーのみならず、スポーツの魅力は、戦略性や競技性だと考えているが、それ以上に 強烈な個性を纏った人間を観測できる点にもあるのではないか。例えばコナー・マクレガー (★ https://www.instagram.com/thenotoriousmma/ )を挙げてみたい。彼は、格闘家として、対戦相手にトラッシュトークを交え、試合前から盛り上げることを意識していた。他者に対し、執拗に絡むことで PPV の売り上げを伸ばすなど、試合のパフォーマンス以外の観点から、格闘技業界に寄与することを意識していたように思う。

 

だが、最近はこのような強烈な個性を打ち消すように働きかける人が多いような気がする。そう思い始めたきっかけはクリスティアーノ・ロナウド (★ https://www.instagram.com/cristiano/ )を巡る様々な動きだ。彼の魅力はナルシズムとエゴイズムを兼ね備えているところで、私はそんなロナウドが好きである。叩かれる度に、結果でヘイターたちを黙らせてきた。しかし、今シーズンに入り、フィジカルの衰えや身内の不幸が相まって成績を落とし、騒動もあって欧州から去ってしまうことになった(【記事リンク】https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/al-nassr-cristiano-ronaldo-202301031910/blt226d7d60c2704d20 )。

こうした状況下で、次第に、彼の持つエゴイズムに対する批判的な意見が改めて増えていった。  

私はこの風潮に危機を感じている。このままでは、聖人君主ばかりのつまらない世界になってしまうかもしれないと考えているからだ。勿論、聖人君主が悪いと言いたいわけではな い し 、 彼 が 起 こ し た 一 連 の 騒 動 (【記事リンク】 https://www.soccer- king.jp/news/world/wc/20221121/1711337.html ) や 少 年 の ス マ ホ を 叩 き 落 し た こ と(【記事リンク】 https://news.yahoo.co.jp/articles/912163be47f9072abdd39332f0738d92418c2677 ) が非難の対象であることに疑いの余地はない。サッカー選手の中でも人格者の代表例として挙げられがちな、ルカ・モドリッチ (★ https://www.instagram.com/lukamodric10/ ) や ア ン ド レ ス ・イ ニ エ ス タ (★ https://www.instagram.com/andresiniesta8/ )は素晴らしい人間性を兼ね備えていて、私も好きである。だが、ロナウドやネイマール(https://www.instagram.com/neymarjr/)のような、良くも悪くも尖った選手がいてもいい。事あるごとに彼等を叩いて、追い込もうとする人間が存在するという事実が自分には苦しく感じられる。

無論、好き嫌いがあるのは人間だから仕方ないとは思うが、自分の思うサッカー選手像・人としての理想像に当てはめようとして、彼らの個性まで潰そうとするのは、よろしくないのではと考える。ロナウドに関しては、ここまでのエゴイズムを持っていたからこそ、ピッチの内外で注目され、偉大なレガシーを打ち立てることが出来たのだ。

仮に、彼が心優しき聖人君主だったとして、果たしてここまでの選手になることは可能であっただろうか?  

 

個性を消し、出る杭を打つ動きは果たしていいことなのだろうか。身近な例から考えてみたい。

マスクが義務化されなくなったものの、相変わらず多くの人がマスクをしている。日本国内には、「マスク警察」などと揶揄される、他人に画一化を迫る人間が一定数存在する。勿論、彼らがいることで日本社会の治安が良くなっている側面はあるだろうし、規律が守られていることも確かだ。だが、同時に変革が起きにくくなるということもまた事実である。一部の人間がルールを逸脱し、イノベーションを起こすことで人類は発展してきた。

マイノリティを迫害することは人類の発展を阻害することとなる。それでは、進化が訪れない。  

個性を否定することで生まれるメリットよりもデメリットの方が多い。協調性はもちろん大切だが、それ以上に自分の意見が滞りなく発信できる環境が形成されていることの方が、より大切だと考える。画一化は後者を制限する。周りの圧力を恐れ、発信できなかった ことで歴史に埋もれていった鋭い示唆がいくつもあったに違いない。  

ダイバーシティが叫ばれているが、現状では受け入れられるケースの方が少ないのではないか。理由としては、ロジックよりもフィーリングで判断してしまう人間のほうが多いからだと自分は考えている。冷静に考えれば、感情で叩くよりも、建設的に会話をしてお互いを理解したほうが、今後にとって有益な体験や新たな価値観が得られることは自明であるからだ。もちろん人間は感情的な生き物であり、そもそもロジック優勢であるならば、差別など起きてはいない。現実では尖った人間が鼻についてしまい、「気に入らない」、「ムカつく」と感じて、叩き落そうとする。生き物としての本能なのか、個々人の幼少期からの価値観がこうさせてしまうのかはわからないが(おそらくその複合要因なのだろうが)、あまりよろしいことではないと自分は思う。ロジカルシンキングを取り入れることが個性を守ることに繋がり、思考と感情の程よいバランス感覚を養えるのではないかと考える。  

人は良い点も悪い点も相まって個性を発揮する。矛盾や欠点を孕んでいるからこそ美しいのだ。他者を否定することで、結果として自らが否定されてしまうかもしれない。それでは結果的に多くの人が幸せにはなれないだろう。多様化が叫ばれている現代だからこそ、今一度、他に理想像を押し付ける動きを止めてみる努力をするべきではないかと思う。この意識が伝染すれば、回りまわって自らも認めて貰うことが出来る。「みんな違ってみんないい」という言葉の意味について改めて考えるべき時期が来ているのかもしれない。  

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2023/03/25
執筆者 |
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(いお)

大学2年生。趣味はスポーツ観戦とHIP HOPを聴くこと。最近は大谷翔平と佐藤輝明に興奮している。

写真 | Oleg Dubyna (Wikimedia Commons)
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