「傷つける」「傷つけない」を超えて : これからの笑いと社会の距離感について
テレビ朝日系列で2022年12月18日に放送された『M-1グランプリ 2022』は、ウエストランドの優勝で幕を下ろした。 しかし彼らの優勝には賛否両論があったように思える。
culture
2023/03/25
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

■私はウエストランドの何に笑っていたのか

テレビ朝日系列で2022年12月18日に放送された『M-1グランプリ 2022』は、ウエストランドの優勝で幕を下ろした。

しかし彼らの優勝には賛否両論があったように思える。なぜなら、彼らのネタは、あるなしクイズを出題する河本太(動画向かって右)に対して、井口浩之(動画向かって左)がひたすらにアイドル、俳優、『R-1グランプリ』など、様々な対象への悪口を言い続ける、という内容だったからである。

このネタ中の井口の悪口は、対象への解像度も低く雑であるし、新鮮さもない。しかし、ウエストランドのネタは、「こんなことを言っている彼らが一番みみっちいし、どうしようもない」という認識、つまり演者のキャラクターへの理解というメタな要素があった上で、最も笑えるネタとなっているのだ。

この点から、ネタ中の井口を「インセル(弱者男性)の主張」「バックラッシュ」と指摘する人もいる。たしかにそう捉えられかねないギリギリのラインだと思うが、私にとっては「ギリギリ安全」だった。それもまた、「こんなことを言っている彼らが一番みみっちいし、どうしようもない」=「権威がない(ように見える)」からだと考える。もしある種の「イキリ」「尖り」が先行していたり、彼らに権威があるように見えてしまったりするなら、ウエストランドのネタは面白くはなかっただろう。私が危惧しているのは、「M-1の優勝」によって、権威が付いているかのように見えてしまい、「ギリギリ安全」だったバランスが保てなくなってしまうことである。権威がない(ように見える)からこそ、お笑いは自由でいられるのかもしれない。

このような、現代の笑いに伴う閉塞感や不自由さは、既にサンキュータツオが

「『わからないもの』『理解ができないもの』を外側に追い出して『仲間じゃねえ』というのは『差別』だと思うんですが、コミュニティの中で『こういう違いがあるよね』『こういうすれ違いがあるよね』っていうのは、本来であれば『笑い』の役割としてできるものです。ただ、芸人の立場が弱すぎて、いまはぜんぜんできる状況にないですね。」
「『笑い』や『ロック』のようなアンダーグラウンドから出てきた芸能というのは、つねに反体制的なわけですよね。(中略)いまはそれをやるとやれ『左翼だ』とか『あいつは右なのか左なのか?』と一辺倒に受け止められてしまう。少なくとも空気的にはすでにタブーになっています。」★1

と指摘している。これは2019年の文献からの引用ではあるが、2023年になった今、このような白か黒か、0か100かでしか判断できない傾向は以前より強くなっているのではないだろうか。

■「人を傷つけない笑い」と社会

次の4つの表は、2019年から2022年までの『M-1グランプリ』の決勝ネタを、私が独自に「社会的リアリティの高さ」「メタな要素の強さ(ここでは、演者のキャラクターへの理解度がネタの面白さに直結するかどうかを判断軸とする)」を基準としてマトリックス表に振り分けたものである。

(M-1グランプリ2019 決勝)

(M-1グランプリ2020 決勝)

(M-1グランプリ2021 決勝)

(M-1グランプリ2022 決勝)

この表を見ると、ネット上でいわゆる「人を傷つけない笑い」「優しい笑い」とされたネタには、社会的リアリティが比較的低いという特徴が見られた。つまり、ネタが現実社会から切り離されているのである。2019〜2022年の決勝ネタから例に挙げるならば、マヂカルラブリー、ランジャタイ、ヨネダ2000などは奇妙な設定や独特の動きで視聴者を置き去りにすることでおかしさが生まれていたし、ミルクボーイやダイヤモンドなどは言葉遊びの延長線にあるおかしさを追求したネタと感じた。それらのネタに、現実の社会を直接的に映す要素はほとんど見られない。

このようなネタが、2022年は特に多かったように思える。その原因は単なる芸能界のコンプライアンス意識の変化だけではないだろう。複雑怪奇になっていく現実社会から少しでも目を逸らしたい、わからないことをわからないまま飲み込んで、自分なりに噛み砕いて消化することによるコストを減らしたいという、ポストトゥルース的な現代の欲望のあり方と無関係ではないと、私は考える。  

■「人を傷つけない笑い」という言葉が見えなくするもの

ところで、「人を傷つけない笑い」という言葉が使われるようになって久しいが、この言葉は2019年頃から、ミルクボーイ、ぺこぱなどの知名度向上や、Aマッソのネタ中の人種差別ととれる発言による炎上などをきっかけとして、浸透した印象がある。確かに容姿・ジェンダー・人種などを根拠に雑に人を貶めるだけのネタは、私は面白いとは思えない。しかし、そうした要素を排除した結果生まれたものを「人を傷つけない笑い」と称することに、私はどうしても身構えてしまう。なぜなら、あらゆる表現は誰かを傷つける可能性を秘めているからだ。心が傷つくこと、あるいは傷つかないことにおいて、誰しもが共通して持っている感覚はそれほど多くない。それを踏まえていない表現のような気がして、胡散臭く思う。また、本来「笑い」という行為は、意識的にそうしようとするよりも、むしろ自然と笑って「しまう」ものであるような気がする。時と場合によっては自分自身(あるいは自分が所属する属性)が貶められていたとしても笑ってしまうときさえあり、そのような複雑さも見落としてしまうリスクがあるだろう。

それこそ、ウエストランドのM-1決勝ネタにおいては、この記事のようにわかったようなことを書いて「分析」したがるお笑いファンも「悪口」の対象となっている。しかし、私はそれでも笑えてしまった。

このような複雑な多層性を抱えるのが「笑い」という行為であり、「傷つける/傷つけない」の軸で単純に押し込めてしまうのは危ういと考える。

■笑いはどこへ行くのか

前述の通り、私は「傷つけない笑い」という言葉にある種の胡散臭さや危うさを感じているし、「傷つけない笑い」と称されるネタで現実社会の広大さ、複雑さを扱うことには困難が生じるだろう。だからと言って、時事ネタや現実の「あるある」、偏見などを入れて、現実社会の反映度が高ければよいかと言うと、それもまた違うように感じる。

なぜなら、現実逃避がまったく許されないこともある種の息苦しさを生み、単に現実社会を反映しているだけでは「おかしさ」とは言い難いからである。それほどに笑いという現象は身近なのに複雑で、語ることは難しい。しかし、それでも語ることをやめないでいたいと思う。それこそが、「笑い」を単純なものに押し込めないために必要な試みだと思うからだ。

「傷つけない/傷つける笑い」という単純な言葉で押し込めるのでも、それらの反動として「ポリコレ」や「コンプラ」のような言葉を安直な非難のための道具にするのでもない方法で、「笑い」の作り手も受け手も(日常生活においては、芸人のみならず誰もが「笑い」の作り手になりうる)考え続けていく必要があるのではないだろうか。

その点で、私は新しい「笑い」を作り続ける意志のある人々を、楽しみながら支持していきたいと思う。

注.

★1―― 出典:「『笑い』概論 サンキュータツオ(米粒写経)インタビュー」早稲田文学会「早稲田文学増刊号 『笑い』はどこから来るのか?」p13-14,2019

culture
2023/03/25
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

クラウドファンディング
Apathy×elabo
elabo Magazine vol.1
home
about "elabo"