性的倒錯者からファンダムへ:映画『ピアニスト』から読むドラマ『キラー・ビー』
「僕たちはただ、『キング・オブ・コメディ』と混ぜ合わせたポスト・トゥルースの『ピアニスト』を作ったら面白いだろうなと思ったんです。」
#キラービー #Swarm #ファンダム
culture
2023/04/07
執筆者 |
柳澤田実
(やなぎさわ・たみ)

1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。

Twitter @tami_yanagisawa

金髪の男性と美しいまとめ髪の女性が白いタイル床の上に座り込み、接吻している。男性のセーターの黒色と背景の白色がコントラストをなし、横座りした女性の黒いパンプスが艶かしい。これは映画『ピアニスト(原題:Piano Teacher)』(2002年)のポスターだが、本作品は、この恋愛映画風の写真が期待させるような、めくるめくようなロマンスや官能を一切提供してはくれない。観者の予想を裏切り、丁寧に描き出されるのは、主人公エリカが次々に露呈する突拍子もない醜態である。ミヒャエル・ハネケ監督による本作品がカンヌ映画祭で上映された際、観客の三分の一が不快感を覚えて退場したそうだが、結局、最優秀映画賞を獲り、エリカを演じたイザベル・ユペールは最優秀主演女優賞を受賞した。好き嫌いという問題を超えて、この変態ヒロインを忘れることができない者は多い。

そして、どうやらドナルド・グローヴァーもまた、ユペールが十全に演じ切った想像の斜め上を行く変態性を忘れられない一人だったようだ。現在Amazon Primeで放映中の新作ドラマ『キラー・ビー(原題:Swarm)』についてグローヴァーは以下のように語っている。

「僕たちはただ、『キング・オブ・コメディ』と混ぜ合わせたポスト・トゥルースの『ピアニスト』を作ったら面白いだろうなと思ったんです。」

https://www.vanityfair.com/hollywood/2023/01/donald-glover-show-swarm-first-look

■『キラー・ビー』が前提とするいくつかの文脈

『キラー・ビー』のコンセプトは、上記のグローヴァーの言葉に端的に要約されている。『キラー・ビー』はファンダム、特にストーカー的な熱狂的ファン(=スタン)を主題にしているが、彼らが第一に参照したのは『キング・オブ・コメディ』である。マーティン・スコセッシが監督し、1983年に公開されたこの映画で、ロバート・デニーロは有名コメディアンをストーカーするコメディアン志望の男性を怪演した。今から丁度40年前に公開された本作は、現代のカルティックなセレブリティ文化の予言だったとも評されている。『キラー・ビー』が本作から継承したのは、人々がメディアを通じてセレブをまるでよく知っているかのような錯覚を持つようになり、虚構と現実の区別がつかなくなっているという設定だ。今日『キング・オブ・コメディ』を観ると、フィクションとリアリティの区別がつかないという意味でのポストトゥルース的状況は、テレビが普及した時代にすでに始まっていたことに気付かされる。

言うまでもなくこのポストトゥルース的状況は、インターネットによって加速した。『キラー・ビー』はこの現代の虚実入り乱れる状況を入念に再現している。ビヨンセとそのファンダムBeehiveをモデルにし、毎回のエピソードに「このドラマはフィクションではない」と但し書きを付けているのは最もわかりやすい仕掛けだが、ネット上の噂とドラマ内の登場人物を紐づけたり、ドラマの物語をモキュメンタリーに仕立てた回を設けたりすることによって(エピソード6)、本作は意図的に虚と実の境界を曖昧にしている。ネット上の噂との紐付けとして印象的なのは、最重要登場人物である、主人公ドレの姉妹、マリッサ・ジャクソンだろう。彼女の名前は、ビヨンセが夫のJay-Zに浮気をされた際にショックを受けて自殺したとネット上で噂された少女の名前「マリッサ・ジャクソン」から取られている。このマリッサを、ビヨンセから影響を受けたことで知られ、ビヨンセのレーベルから曲をリリースしているミュージシャン、クロイ・ベイリーが演じている。そして最終話でクロイは、本作品のなかのビヨンセに当たるスター、Ni’jahを、それまで演じていたニーリン・ブラウンに代わって演じる。このNi’jahを演じる女優の入れ替わりは、最終話のどこまでが現実でどこからがフィクションなのかを不分明にする。Ni’jahが愛する姉妹と同じ顔になっている場面は、果たしてドレの妄想に過ぎないのだろうか?この仕掛は同時に、そもそも主人公ドレにとって自分の人生を捧げるほど愛したアイドルとは何だったのか、視聴者に考えるように促す。

■フロイト的倒錯者としてのドレ

この虚実の区別の不明瞭さ★1は、グローヴァーが『キラー・ビー』を作るにあたって参照にしたというもう一つの作品『ピアニスト』にも見られる。『ピアニスト』のラストシーンでは、主人公のエリカが何をしようとしていたのか、この後どうなるのかがよくわからない演出になっている。そしてこの調子外れなエンディングによって再考を迫られた観者は、この異様な物語のどこまでが現実だったのか、彼女の妄想だったのか更によくわからなくなってくる。

妄想の現実世界へのせり出しこそ、『キラー・ビー』のドレと『ピアニスト』のエリカを繋ぐものだ。生育環境のなかで抑圧され、日常的な人間関係を築くことが不得手な二人は、生業とする活動以外には、たった一人の家族への愛着とそれに付随した妄想の世界だけに生きている。ドレの場合、マリッサとの関わり以外の生活は、幼い頃から二人で夢中になっていたNi’jahの音楽を聴き、ネットで彼女にまつわる情報を集め、Ni’jahについて妄想することがその大半を占めていたのだ。ドレはマリッサを失った後に、Ni’jahのヘイターを殺害するシリアル・キラーに変貌するが、それは妄想世界が現実世界に侵食した結果だと言うことができるだろう。対する『ピアニスト』のエリカは、激しく彼女を抑圧してくる母に対して強い愛着を持ちつつ、異常な性的妄想を深めている。彼女の妄想は折々に滑稽なほど異様な行動となって既に現実に染み出しているのだが、その侵食は一人の若く才能ある男性からの求愛によって一気に溢れ出し、エリカを暴力へと駆り立て、最終的には自滅させる。

『ピアニスト』のエリカについては、彼女を精神分析家のジグムント・フロイトの「多形倒錯」という概念で分析した英文学者のジョン・シャンパーニュによる魅力的な批評があるが、その内容は『キラー・ビー』のドレというヒロインの造形を理解する上でも助けになるように思う。フロイトは、性器の性欲に満足感を見出すことができない状態を「倒錯」と呼んだ。そして「多形倒錯」とは、基本的には自己を監督する「超自我」を内面に確立する以前の★2、性交渉に直接結びつかない身体機能や感覚から性的満足を得ている、本来なら幼児期の状態が大人になっても継続している状態を指す。映画の中の様々なエピソードで丹念に示されているように、エリカの性的嗜好は混乱しており、自分を愛する男性と「まともな」性的な関係を結ぶことができない。その意味で、エリカは普通の男女関係に満足できない「多形倒錯者」だと解釈されている。

この解釈を前提に『キラー・ビー』の内容を観てみると、ドレが明らかにいわゆるヘテロの恋愛関係に疎く、子供のように自分の身なりや振る舞いに無頓着で、性的に流動的であることに気付かされる。エピソード2の妙にドタバタしたポールダンスからは、彼女がヘテロシス的な意味でのセクシーさを内面化していないことがわかる。またエピソード1では、マリッサの傷に繰り返しキスをして気持ち悪がられる場面があり、エピソード6のモキュメンタリーでは、レズビアンを疑われるほど密接なドレとマリッサの関係が示唆されている。そして最終話のエピソード7でドレは、男性的な風貌のトニーとなって現れるが、ガールフレンドとの性交渉には失敗する。これらの描写からは、ドレが未だに自分のセクシャルな欲望について曖昧な状態にあり、唯一はっきりと自覚できているのはマリッサとNi’jahに対する強い愛着だけであることが窺える。

■欲望が整理されない段階に留まる人間の狂気

実は今回の『キラー・ビー』を発表した際に、ドナルド・グローヴァーは黒人女性を蔑む「ミソジノワール」ではないかという疑念がネット上で再燃し、これに関する記事が複数上がっていた。グローヴァーは『アトランタ』を製作した際に、唯一女性の主要登場人物、ヴァンの造形に関して、いわゆる「怒れる黒人女性(Angry black woman)」のステレオタイプが反復されているという趣旨で批判された★3。またグローヴァー本人が自分にインタビューするという企画において、「あなたは黒人女性を恐れているのですか?」という真意を測りかねる問いを設けたこと、加えて彼自身は白人とアジア系の血を引く女性と結婚していることなどから、「ミソジノワール」疑惑が度々掛けられてきた。そして今回の『キラー・ビー』については、グローヴァーが、ドレを演じたドミニク・フィッシャーバックに演技を指示する際に「人間だとは考えないで動物のようになって」と言ったこと、またドレというキャラクターについて「ドレはそこまで重層的ではないと思う」と語ったことが問題視されたのである。

しかし、ドレが「多形的倒錯者」エリカの2023年バージョンだと想定するならば、グローヴァーが先のインタビューで言葉にしようと腐心しているのは、黒人女性への蔑視ではなく、★4むしろ抑圧的な環境のなかで、自分の欲望が整理されない段階に留まり続ける人間の狂気についてであるように思われる。

ドレを演じたフィッシャーバックもまた以下のように述べている。

「ドレは、物事が自分に影響を及ぼしていることを理解する手段を持たずに前進しています。私自身は、ありがたいことに、起こったことすら覚えていないことが、今日まで自分に影響を及ぼしていることを自覚しています。」

https://www.vulture.com/article/dominique-fishback-dre-swarm.html

フィッシャーバックはこの言葉を、イースト・ニューヨークを散歩している際に、見知らぬ男性が撃たれるのを目撃した彼女自身の実体験を回想しながら語っている。彼女はドレを演じる試行錯誤のなかで、自分とドレを分けるものは、暴力をすでに被っていることを自覚できているかどうか、その苦しみから抜け出るために助けを求められるかどうかだと理解するに至ったのだそうだ。このようにまとめてしまうとあたかもセラピー等によって苦しみから抜け出ることが正義のようであるが、『キラー・ビー』では、むしろ抜け出ることの困難さの方に焦点が当てられている。ビリー・アイリッシュが驚異的なカリスマ性を醸し出しカルト的なセルフヘルプ・グループの教祖を演じたエピソード4では、まさにセラピーによってドレが自分の痛みを自覚しかけるプロセスが描かれている。しかし、ドレは最終的に泣きながらこの集団(この集団もまた幻想の共同体なわけだが)を破壊し、立ち去り、Ni’Jahと自分しか存在しない幻想世界に舞い戻っていく。

■幻想・産業複合体のなかで

ファンダムやスタン・カルチャーをテーマとし、そこにジェンダー・フルイディティの問題を絡ませているという番組解説を読んだ当初、私は、『キラー・ビー』は時代の流行の寄せ集めに過ぎないのではないかと懐疑的だった。けれども『ピアニスト』、『キング・オブ・コメディ』を再解釈する製作陣★5の試行錯誤を辿った上で思うのは、虚実を区別できない人間の狂気を2023年に主題化する際に、ファンダムという繭のなかで愛着のみの段階に留まろうとする女性を取り上げた、グローヴァーの直感はあまりにも鋭いということだ。思えば朝起きた瞬間から寝る寸前までスマホをスクロールして妄想の洪水に浸り、「自分が好きなもの」に対する愛着で自己を防衛している状態とは、世代も性別を問わず現代を生きる私たちが抱えている狂気なのではないか。そして私たちの多くはドレと同様に、この状態から抜け出る術を持っていない。妄想空間の外部に出ること(かつてはそれを「現実界」や「成熟」や「近代的自我」と呼んだのかもしれないが)がどういうことなのか、もはや誰にもわからなくなりつつあるからだ。このように常態化した「狂気」は果たして狂気と言えるのだろうか?

近年、大人の「幼児化」が批評家★6やクリエイターから自己反省的に指摘されているが、この「幼児化」の内実に『キラー・ビー』の細やかな描写は確実に、内側から触れている。最終話でドレは、生活費を犠牲にして高額のチケットを購入したことを叱責してくれる、自分の人生に新しい展開をもたらすかもしれない新しい恋人との軋轢に耐えられず、再び妄想の中に退去してしまったように見える。ドレの最高の妄想とも言えるラストシーンに私は言いようのない痛みを感じたが、それは、おそらく同じ時代を生きる自分自身の痛みでもある★7。

注.

★1――虚構と現実の境界を曖昧にする、こうした極めて手の込んだ組み立ては、本作『キラー・ビー』に先立つドラマ『アトランタ』でも、極めて洗練された仕方で試されていた。

★2――シャンパーニュのフロイト理解によれば、これはエディプス・コンプレックス以前の多義的な倒錯性を持っている幼児の状態である。

★3――私見では一種のアイデンティティ・クライシスに陥いるヴァンの造形は、人種を超えて、子供を持つ30代位の母親にとって共感可能な普遍性を持っている。

★4――ここで女性が選択されるのは、ジェンダーの問題というよりも、こうした狂気に追い込まれる強い抑圧の犠牲者の多くが女性だという現実認識に基づくと思われる。この考え方は、『ピアニスト』を製作、監督したハネケの理解でもある。https://www.austrianfilms.com/news/en/bodymichael_haneke_talks_about_the_piano_teacher_body

★5――本稿では議論が錯綜しないように、ドナルド・グローヴァーに焦点を絞ったが、『キラー・ビー』の脚本家のジャニーン・ネイバースもハネケ監督による映画『ピアニスト』が好きで、グローヴァーと共通の目的をもって取り組んだと明言している。また実際にアフリカ系アメリカ人であり、女性でもあるネイバースとしては、これまで主に白人男性が演じてきたシリアル・キラーを黒人女性にすることによって、黒人女性のステレオタイプを打ち破ることもまた重要な使命だったと言う。彼女はこの作品によって議論が生まれることを何よりも望んでいたので、オーディエンスの反応には非常に満足しているとも述べている。(https://www.elle.com/culture/movies-tv/a43393162/swarm-finale-janine-nabers-interview/

★6――カート・アンダーセン『ファンタジーランド:狂気と幻想のアメリカ500年史』山田美明訳、東洋経済新報社、2019年。特に大人が幼児化し、虚実入り混じる「幻想・産業複合体」が出来上がる1960年代については第4部、第26章。

★7――『ピアノスト』のエリカが絶望的でありながらも、どこか清々しいのは、彼女の狂気が徹底的に個人の孤独な探究になっているだからだろう。ハネケが描く、彼女の妄想世界の破綻にはひりひりするような肌触りが感じられるが、最終的に幻想の温かな光に包まれてしまうドレよりもある意味で救いがあるようにさえ感じられる。この対比から気づかされるのは、狂気が実存的に深められ、クリエイティビティに接続するために、近代後期に現れたファンダムという集団主義がある意味では防波堤に、別の意味では弊害になっている可能性である。例えばドレが抱く幻想や妄想が、詩やアートの制作に結びつく可能性もあると思われるが、ファンダム・カルチャーから供給されるテンプレ化された行動パターンがそのような可能性を狭めているようにも見える。ドレが繰り返しスマートフォンでファンダムの動向やヘイターたちを検索して、自分の行動を決定している場面は印象的だ。

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2023/04/07
執筆者 |
柳澤田実
(やなぎさわ・たみ)

1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。

Twitter @tami_yanagisawa

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